心配しなくても社畜はしばらくしたら絶滅するだろうけど

この記事の元になった「小町」ネタは、私も読んでいて「このおばちゃんたちの下士官根性はどげんかせんといかん」とつくづく思ったものだ。

http://kusoshigoto.blog121.fc2.com/blog-entry-303.html

「妻の病気のときに夫は仕事を休むべきか」(もうちょっと正確に言うと、妻には生まれたばかりの赤ちゃんがいて、自分は高熱出してるのに24時間赤ちゃんの世話をしなければいけない状況だった)というお題に、「そんなことでいちいち夫を休ませていては、クビになる」とか「あなたは甘い」とか「日本はダメになる」とかそういうレスが女性と思しき人からたくさんついている。

そんな中に、「えー、そーっすかぁ、ボクなら休みますけどぉ」という、わりと若そうな男性からのレスが後半増えだして、ちょっとほっとしたり。

で、こういう「おばちゃんたちの下士官根性」の世界は、当然のことながら、これまでの日本の社会の中では、このように振舞うことが「得」だったから、皆がそれを見習ってやるようになり、成立してきた。「終身雇用」が「あるべき規範」であった時代には、そうやって無理をして体を壊しても、会社はちゃんと面倒を見てくれただろう。「武士の一分」という映画の中で、キムタク演ずる主人公は、「毒見役」という仕事のために失明してしまったが、お殿様はやさしくて、捨扶持を彼に与えて生活を支え続けた。これが、「終身雇用」時代の日本企業の美しい姿の象徴だった。(実際には降格されたりいろいろあっただろうが、クビにはならなかっただろう。)そして、妻はそういう夫を支えて、終身雇用の職にしがみ続けさえすれば、老後の心配もない。妻と夫の生涯全体のスパンで見た幸福の総量を、利子率で割引して(なんせ日本は低利社会だし)、現在価値に直した「幸福の現在価値」は、「妻を放り出して残業する」ことのほうが、「幼子をかかえた妻のために仕事を休む」よりも大きくなる。

しかし、もはやそんな時代ではない。会社に奉仕して無理して体こわしても、挙句に放り出されるのが関の山だ。それよりも、いざというときには助け合う家族のほうに、普段からエネルギーを注いでおくのが当然。そういうふうに、だんだん変わっていくだろう。

私自身は女だから、終身雇用という幻想は過去にただの一度も持ったことはなく、だから社畜になるというインセンティブも全くなかった。会社のために無理して体を壊しても、誰も面倒など見てくれない、バカバカしい、自分と自分でつくった家族でなんとかしなきゃいけない、という考え方をずーっと持ってきた。今の若い層の方々は、おそらく私と同じ考えなのだろうと思う。

なので、ほっといても世代交代すれば、「アナロ熊」みたいに、そのうち「下士官根性おばちゃん」は消滅するだろう。でも、若年層のほうが人口少ないし、おばちゃんたちの層が厚いので、自然な世代交代には時間がかかるだろう。その狭間で、今の30代とか40代あたりの年齢層が、板ばさみで苦労することになってしまう。

解決法は、「クビ上等」と言い放つことのできる、優秀でつぶしがきく人が率先して、「社畜」状態の環境を捨てて外に逃げることだ。「外」とは、他の会社かもしれないし、海外かもしれないし、自分で起業することかもしれない。いろいろあり。「逃げることは一つの意思表示」という話を書いた。「優秀な人ほど先に流動化すべき」という話も書いた。この話もそれの続きだ。「社畜下士官根性」は、上記のようにすでに時代遅れであり、多くの人がその考えに洗脳されてしまって元に戻らないだけの話で、何か必然性があって残っているものではない。「洗脳」を死ぬ前に解くには、そうやってできる人から「脱・社畜」を実践して、そのうち「メディア」で誰かがそれを取り上げてファッションにでもしてくれるのを待つ、といったところかと。

<追記・10/18>
下士官根性」とは、「自分がむかし苦労したんだから、オマエもおんなじ苦労をしろ」と言って、先輩から自分がやられたのと同じいじめを、自分の後輩に対してする行為。「負の連鎖」ともいえる。つまり、私がここで問題にしているのは、「本人が合理的に判断して、残業するとか仕事で無理をするとか決めるんじゃなくて、思い込みによる誤った自己規範をもとに決める」ことをいう。