「フェースブックとソーシャル各社IPOの戦績表」記事公開されました

日経ビジネスオンラインの月例コラム、今月はフェースブックIPOと「あの人は今」です。副題「人間関係データは戦略核」というお話は、最後のページまで読まないとわかりません。

http://business.nikkeibp.co.jp/article/world/20120531/232783/?mlp&rt=nocnt

本日は、お知らせメールのトップに記載していただき、現在アクセス数第二位です!宜しくお願いします。

「コンプガチャ問題」に見る新興勢力の危機管理と矜持

今週は出張していたので、例のソーシャルゲームおよびコンプガチャに関する件はROMしていただけだったが、遅ればせながら私の考えを一応まとめておきたい。

ソーシャルゲーム各社を叩く論調が多いが、ベンチャーの芽を次々と摘み取る役所への不満の話なども聞こえてくる。

私個人としては、グリーやDeNAを「人格攻撃」ならぬ「社格攻撃」をする気はない。せっかくベンチャーからここまで頑張ってきたのだし、世界で戦おうとやり始めているところで、ここで踏ん張ってほしいと思っている。遅きに失したが、それでもbetter late than neverで、かろうじて事前に自主規制したことはよかったと思う。

ベンチャーが出発するときには、既存のシステムに挑戦するがために、法律的にはグレーだったり網の目だったりするところを通るのもある程度仕方ない。グーグルだってフェースブックだって、今でもプライバシー問題などで、年がら年中戦っている。私が昔いたベンチャーも、結局潰れてしまったが、まーいろいろあったので、今でも外部の人は悪名の部分しか覚えていないだろう。

そして、そういう新興勢力をけしからんから潰そうという人たちがたくさんいるのは所与である。過去のリクルートライブドアの件を見てもわかる。「だって、役所がー」と泣き言を言っても始まらない。過去から教訓を学ばなければいけない。

そして、一方では儲けなければいけない、という点もこれまた仕方ない。

何が正しいとか正義とかは相対的なものだ。線の引き方は人によりけりだし、なんとでも言える。ただ、この一連の事件を通して、ベンチャーが陥りがちな穴と、その危機管理対策というのも見える。

ぶっちゃけた言い方をすれば、そういった敵に負けないぐらいの「味方」勢力を作っておけばよい。やり方はいろいろあるが、王道は「お客さん」を味方につけることで、このお客さんがメインストリームに十分な数存在し、その人達が「このプロダクトがなくなったら困る」と心から支持してくれるようになれば、メディアもサポートするようになり、そう簡単には潰されなくなる。

以前のエントリーで、フェースブックに関する本の書評を書いたが、その中でザッカーバーグマイスペースを評して言った引用がある。

「そこがシリコンバレーの会社とロサンゼルスの会社の違いだ。われわれはずっと長く使われるサービスをつくる。この(マイスペースの)連中は何ひとつわかっちゃいない」
理念がなければ成功できない - 「フェースブック 若き天才の野望」 - Tech Mom from Silicon Valley

マイスペースは、早くから広告による換金化を目指して、この頃にはかなり「ユーザー優先よりも金儲け指向」に陥っていた。フェースブックだって、いろいろ叩かれる材料もありながら、一方では「アラブの春フェースブックが起こした」と言われるほど、(少なくともアメリカの世論やメディアから見て)社会的役割を果たしている。「高値どまりしているものをもっと安く広い範囲の人々に」だったり、「言論の透明化」だったりなど、多くのメインストリームの人の共感を得られる理念を新興勢力側が提供することができれば、その見えない力を援軍として戦うことができる。

日本のソーシャルゲーム各社が、メディアで問題が出だした頃から早めに自主規制する一方、「自分たちはこれだけ世の中の役に立っている」ということを胸を張って言えたらよかったのに、と思う。しかし、「法律に違反してない」だけでは言い訳に聞こえるし、たとえ議論でねじ伏せても、それを聞いている人たちが感情面でも納得しなければ味方にはなってくれない。現在のお客さんはどうやら、いわゆる「メインストリーム」ではなく、かなり大きいながら「ニッチ」な存在。結局は役所や古いマスコミだけでなく、ネット世論でも支持されず、援軍はどこからも来なかった。「味方」のアセスメントを見誤ったといえるだろう。

「役所やマスコミの圧力に対する危機管理」というと功利的に聞こえるが、みんなはバカじゃないので付け焼刃ではダメ。儲かったお金を震災対策に寄付するとかいう一時的な話ではなく、本業における自分たちの強みを活かして、どうやって社会に役立てていくか、ということを本気でやらないと、短期的には儲かるかもしれないが、長期的に生き残ることは難しい。

シリコンバレーはそういう文化があり、日本ではそんなキレイゴトをバカにする傾向がある。でも、日本でもホンダやソニーソフトバンクは、それなりのキレイゴトを本気で心に持ってやってきている(かつ、うまくそれを外に対してもアピールしている)と思う。薬品ネット販売の件も、必ずしも直接のお客さんではないメインストリームの人々が、「理念」の部分で新興勢力の味方になった例だと思う。

日本のモバイルゲームのリーダー各社は、世界の同業者からお手本として見られる存在でもあり、もうベンチャーではなく立派な大企業である。日本のモバイル通信業界の将来のためにも、矜持をもって、長期的な発展のできる方向に行ってほしいと思う。

大阪維新の会 トンデモ条例案の黒幕

今朝から、わがツイッターのタイムラインがこの条例案なるものへのすごい批判の嵐でいっぱいになっている。大阪維新の会自体についてはあまり知見がなく、政治的な評価などの意見は私は全くもっていないが、この条例案祭りが、ツイッター以外の場所にあまり出ていないようなので、少々ツイッターを深読みしてみた。

条例案は下記参照。あまり長くないので、ご興味のある方はまずは見てほしい。「これって虚構新聞でしょ」というツイートが的を射ている。本気でこんなことを公の場で言う人がいるのかと驚いた。ツッコミどころが多すぎる。
大阪市・家庭教育支援条例 (案) ――― 全条文 (前文、1〜23条)

特に私の周囲で批判が多いのが、第4章第15条。

乳幼児期の愛着形成の不足が軽度発達障害またはそれに似た症状を誘発する大きな要因であると指摘され、また、それが虐待、非行、不登校、引きこもり等に深く関与していることに鑑み、その予防・防止をはかる

いまどき、こんな話を信じる人がいるのだろうか?確かに、極端な虐待などの環境で育った子供は発達障害のような行動をするかもしれないし、また「普通の子とのボーダー」のような軽度発達障害の子へのケアが現在の日本では抜け落ちていて、親が過剰ストレスから育児放棄のような状態になったり、きちんとしたケアがされなかったために二次障害として引きこもりなどになったり、といったケースはたぶん多くあるのだろうと思う。それにしても、この言い方は「親の育て方が悪いから発達障害になる」と言わんばかりで、「予防」ができるとはこれいかに??

さらに18条がこれだ。

わが国の伝統的子育てによって発達障害は予防、防止できるものであり、こうした子育ての知恵を学習する機会を親およびこれから親になる人に提供する

「ゲイは後天的で治せる」というアメリカの超保守共和党かよ、というツイートがこれまた当たっている。

それにしても、あまりに無茶苦茶なので、逆に一体どういう人が何の意図でこんないかにも批判を浴びそうなものを持ちだしてきたのか、もしかして「炎上マーケティング」の一種なのでは?などと疑ってしまう。

この条例の背景などに関する報道はあまり見当たらないのだが、このトゥギャッターを読んでいくうちに、少々気になる手がかりが見つかった。
大阪維新の会: “家庭教育支援条例案”が、驚愕以前にツッコミどころ満載…な件 - Togetter

私はたまたま、発達障害には個人的にも関わりが深く、まずこれに反応したのだが、これだけでなく条例全体で使われている用語やトーンが、トゥギャッターの中で指摘されている「高橋史朗」なる人のトーンに確かに共通する。「発達障害は予防、改善できる」とか、「伝統的子育て」とか、まさにぴったり。

高橋史朗 - Wikipedia
http://www.amazon.co.jp/%E8%84%B3%E7%A7%91%E5%AD%A6%E3%81%8B%E3%82%89%E8%A6%8B%E3%81%9F%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AE%E4%BC%9D%E7%B5%B1%E7%9A%84%E5%AD%90%E8%82%B2%E3%81%A6%E2%80%95%E7%99%BA%E9%81%94%E9%9A%9C%E5%AE%B3%E3%81%AF%E4%BA%88%E9%98%B2%E3%80%81%E6%94%B9%E5%96%84%E3%81%A7%E3%81%8D%E3%82%8B-%E7%94%9F%E6%B6%AF%E5%AD%A6%E7%BF%92%E3%83%96%E3%83%83%E3%82%AF%E3%83%AC%E3%83%83%E3%83%88-%E9%AB%98%E6%A9%8B-%E5%8F%B2%E6%9C%97/dp/4896391942

さらに、第5章第21条のこの用語。

親としての学び、親になるための学びを支援、指導する「親学アドバイザー」など、民間有資格者等の育成を支援する

この「親学アドバイザー」というのは、この高橋史朗氏のやっている「親学推進協会」というところで出している資格だそうで、講義料や資格取得にお金を払うという商売。
親学アドバイザー認定講座:親学推進協会-親が変われば、子どもも変わる-

さらに、「大阪市」の話のはずなのに、序文には下記のように「本県」とあるため、どこかのコピペだろうというのがツイッター論壇のもっぱらの推測だが、確かに高橋史朗氏は前埼玉県教育委員会委員長であり、埼玉県と関わりが深いようだ。

 このような時代背景にあって、本県の未来を託す子供たちの健やかな成長のために、私たち親自身の成長を期して、本条例を定めるものである。

そして、これもトゥギャッター情報からすると、高橋史朗氏が大阪維新の会で講演をやったこともあるらしい。

以上、少し調べただけなのでもちろんこれが真実とは言い切れないが、ツイッター論壇から見たトンデモ条例案の黒幕推理である。それにしても、だからといって何がどうなって、こんな見るからに炎上ネタが、これだけ今微妙な立ち位置にある維新の会の発言に登場したのか、私には全く理解できない。どなたか、解説してほしい。

一応付け加えておくと、日本でも発達障害の支援体制はだいぶ整ってきているが、「医療」「療育」の範囲に届かない、軽度・ボーダーラインのケースについてはまだまだ手薄で、教育現場も親も、個人が背負いこんで頑張るしかない状況であると聞いている。上記に書いたように、それが原因で親や教師が燃え尽きたり、本人がいじめにあったり自信をなくして引きこもったり荒れたりすることもある。アメリカの中でも対策が手厚い学区で、しっかりサポートしてもらっている私ですら、しばしば燃え尽きそうになるので、支援も周囲の理解も得られない親御さんがどれほど大変な思いをしているか、想像を絶する。だから、「軽度」に対する支援体制の強化、という言葉ヅラだけとればどんどんやってもらいたいと思う。ただ、この条例の中身では困る。

もう一つ、ご参考に、この条例案に対する反論ブログを掲げておく。

大阪市「育て方が悪いから発達障害になる」条例案について - 泣きやむまで 泣くといい

<追記1>
コメント欄にいただいたように、安倍元総理などもからんでいるとのことです。
http://hakubun.jp/2012/04/%E3%80%8C%E8%A6%AA%E5%AD%A6%E3%80%8D%E6%8E%A8%E9%80%B2%E8%AD%B0%E5%93%A1%E9%80%A3%E7%9B%9F%E3%81%AE%E8%A8%AD%E7%AB%8B%E7%B7%8F%E4%BC%9A/

<追記2>
橋下徹氏は、自身で弁明ツイートを出しています。
Twitter. It's what's happening.
http://www.47news.jp/CN/201205/CN2012050401001415.html

<追記3>
「親学」推進派に関する追加情報を盛り込んだブログです。これで、私にはこの件の構造が理解できました。「利益誘導」も絡むかもしれないけれど、結局アメリカの「ティーパーティー」さんたちと同じような思考回路の有力者+有権者がかなり存在する、ということらしいです。このブログのコメント欄にもその片鱗が見られますね・・
「俺の邪悪なメモ」跡地

あと、こちらもご参照。
大阪維新の会のエセ科学的「家庭教育支援条例(案)」逐条批判 (1/3)

<追記4>
参照ループになってしまいますが、やまもといちろうどののエントリーもご参考に。
大阪維新の会の新条例が面白すぎて笑える: やまもといちろうBLOG(ブログ)

<追記5>
もうさすがにこの記事を読みに来る人はあまりいないと思いますが、自分のメモとしてさらに関連リンクを追加しておきます。「大批判を浴びている発達障害の部分を削除するという『譲歩』をすると、なんとなく受け入れられてしまう、それをあらかじめ狙って壮大なトンデモ案をわざと最初に持ってきた、という戦術では」という指摘は面白いです。
カイパパ通信blog☆自閉症スペクタクル : 大阪維新の会「家庭教育支援条例(案)」に反対します
http://d.hatena.ne.jp/bem21st/20120505/p1

平清盛と「ソーシャルTV」の陰謀論

こんな記事を見つけたので、またまた「平清盛ヲタ」の私が湧いて来ましたよ。

朝日新聞『平清盛』記事へのコメントに関して - 春日太一の「雪中行軍な人生」

私は研究家でも評論家でもなく、ここに書くのは完全に根拠のない勝手な自分の想像話であることを最初に断っておく。

上記の筆者が書いているように、確かに平清盛ドラマの「画面の情報量」がハンパでない、ということを最近になって私も理解した。上記では「ハイビジョン」による画面の質のことを主に話しているが、ここで言っているのは、脚本の中に埋め込んであるお話の情報量のこと。時代劇では「史実と違う」という批判がよく出るのだが、ここでは逆に、「いかにもありえない創作の場面なのだが、実は史実がたくさん埋め込んである」ということに気がついたのだ。

例えば、お話が「源氏編」に移るときの信号として、源氏屋敷のペットである猿が最初に映し出されることが多く、これは私は「源氏は山猿(平家は海亀)」という、漫画的な記号であり演出だと思っていた。しかし、先日玉川大学鎌倉時代に関する情報ページを読んでいたら、「当時の武家屋敷には馬の魔除けとして猿が飼われていた」という記述があり、「えー、これって本当だったんだ!」と驚いた。

このことに気がついたのは、ドラマの中で源義朝がドレッドヘアで木のぼりしているときに「ウチらの味方になってください」と三浦一族が頼みに来たエピソード、歴史上では「大庭御厨濫行」なる事件をウィキペディアで読み、たまたま郷里のすぐ近くでのできごとだったことから興味をもって、いろいろネットで資料を読みあさっていたときのこと。これもサラッと流していたら、なぜ自分の軍勢も持たないホームレス男を、「自分の手下として雇う」のではなく、「味方してくれたら自分たちは家来になります」という話になるのか、なんだかわからなかったので調べていた中でわかったこと。

あるいは、先週の話の中で、藤原頼長が家盛の件を忠盛に暴露し、その後近くの若い男の子の手を握りながら「きみはる」とさりげなくつぶやく。「ああ、新しいボーイフレンドね」としか思わなかったのだが、実はこれは秦公春という人で、赦免された殺人犯を私的に殺させた、頼長のいわば「私設:必殺仕置人」だった、という話をネットで読み、これまた「ほぉ〜」と感心したり。

史実だけでなく、伏線がものすごくたくさん張ってあるのだが、これも最初に見た時には気づかない。アメリカでは「TV Japan」というケーブルチャンネルで見ているのだが、日本語だけでリアルタイムで見るのに加え、英語字幕つきで2ヶ月遅れぐらいの再放送があるのを見ると「あ、2ヶ月前のこの話は、今のこれの伏線だったのか!」と気づいたりする。(例えば、清盛の最初の妻明子が、最初にいったん求婚を断る理由が「住吉大社のおかげで結婚できたということになるのはいや」みたいな話で、なんだかサッパリ理解できなかったのだが、これは先日書いた、「寺社勢力/タブーへの挑戦」という一連の話の一つだったのかも、と先週見て気がついた。)

要するに、サラッと見ていてもなんだかわからないネタが多すぎる。

そこで思うのが、最近はハリウッド映画でも、テンポが早すぎたり小ネタが多すぎたりして、劇場で一度見てもなんだかわからず、結局DVDやネット配信で、画面を見ながらネットで調べたり、他の人の解説を読みながら見る、という見方に「誘導」してるんじゃないか、というモノが結構あり、もしかしたら同じことを狙っているのでは?という陰謀論

アメリカでは、映像作品のネット配信はすでに定着しており、そこにさらに、他の人とコメントを交わしながら見るという「ソーシャルTV」の機能を載せようと皆が必死になっている段階。ここなどに書いているように、ネット配信の強みは「配信」ではなく、「検索・オススメ・ソーシャル」といったネット独自機能との統合が肝だと思っている。完全にインターフェース上で統合するところまで行かなくても、今でも「視聴者はiPadもってツイートしながら見てる」ということを意識して番組を作っているケースが多く、番組そのもののネット配信がやりづらいライブ番組でも、例えば今年のフットボール「スーパーボウル」が史上最高の視聴率を獲得したのは、こうした「ソーシャル視聴戦略」が上手く行ったから、との言説がしきり。

さらに、ここに書いたように、DVDに加えてネット配信でも、出演者や制作者にきちんとお金が落ちる仕組みができているので、こうした「何度も見てもらう」方式のコンテンツが作る側のメリットにもなる。この「みんなにお金の回る仕組み」ができるまでに、ハリウッドでもすでにかなり時間と労力がかかっており、日本ではまだまだだと思うが、NHKは例外的に有料のオンデマンドもやっているし、民放よりはコレをやる意味があるだろう。

<追記:うがった見方をすれば、「定額サブスクリプション制」のNHKでは、視聴率が高かろうが低かろうが売り上げに直接の影響はなく、それよりもあとでDVDが売れたり、オンデマンドで有料視聴してくれたほうが、売り上げが増える、ということにもなる。本当にNHKの人がそこまで考えているかどうかは関知しない。>

こういう状況に慣れているので、逆に「清盛」については、番組の作りそのものは「ソレ」向けにできているのに、「ソーシャルTVプラットフォーム」のほうがついてきていないのが残念、とついつい思ってしまう。ネット配信で、ニコ動風にリアルタイムでヲタの皆様の解説や解釈が読めるとか、画面上で猿にマウスオーバーすると「馬の魔除け」という解説を誰かが書き込んだのが読めるとか、そんなふうになっていたら楽しいのに。

せめて、公式ウェブサイトでこうした種々の「トリビア」「小ネタ」「織り込まれた史実」「場面の解釈」などをソーシャル的に書いたり読んだり、関連資料へのリンクを張ったり、そんなことができる場を作るなど、「ソーシャルTV」的な使い方を促進する仕掛けをNHKも自分でやればいいのに、と思ったりする。すでに、ツイッターではtrending topicになったりしているらしいし。

ということで、実験的な試み(=陰謀)なのかも、と、暑すぎる週末、暇なのでちょっと書いてみた。

<追記>
上記で、「猿」や「大庭御厨」などにつき、参考にした玉川大学鎌倉時代資料ページのリンクを入れ忘れましたので下記に。わかりやすい神奈川県郷土資料です。

鎌倉時代の勉強をしよう

ノマドという言霊ハイプを煽る

相変わらず、ネット界隈では「ノマド」ブームを揶揄する動きが続いている。

安藤美冬とかいう新たな勝間和代の襲来: やまもといちろうBLOG(ブログ)

だけど、私はいっそ「ノマド」も、こういった、なんとはなしの現象に名称を付与することで流行を作り出す「言霊ハイプ」にしちゃってもいいのでは、と思っている。

世の中には、メディアのハイプとか◯通的な仕組みのフィルターを通じてしか、新しい現象を理解できない人々が実に多く(どこにでもいるが日本国にはとても多い)、時にそういう人達のフィルターを通すために犠牲を覚悟で「言霊ハイプ」の力を借りるのもアリと思う。「ガラパゴス*1とか「イクメン」なんかも言霊ハイプからお偉い方々の脳にも投影されて、それなりに世の中の気分に一定の影響を与えたと思う。

ノマドに関して言霊ハイプが必要と思う理由は、以前にもこのブログに書いた、「ノマド(あるいはフリーランス)」を雇うクライアント企業側の人々に、「あー、いまどきはそういうのもアリかもね」という気分を醸成してもらいたいからだ。特に、プロフェッショナルな分野でのフリーランス契約が広がるほうが、いろいろと世の中が良くなるのでは、と思うのだ。

ノマドというコインの裏側、「クライアントの存在」 - Tech Mom from Silicon Valley

ノマドという用語が合っているかどうかはわからないが、「フリーランスのプロ」という働き方は子育て中の女性には何かと利点が多い。女性本人がそうなってもいいし、女性が正規雇用でパートナーである男性がそうであるのもよい。どちらかがフリーランスだと、いろいろな意味で融通がきき、物事がいろいろとやりやすくなる。

たまたま、今日「小町」を読んでいて、転勤族の男性が共働き指向の女性と出会いたいのだが無理だろうか、という相談があり、これに答えている女性の大半が「ムリムリ」「そんなに何度も転職できない」と言っているのを見て、その昔会社に勤めていた頃のことを思い出した。同期の総合職女性が辞める決断をしなければならなかったのは、結婚でも出産でもなく、「パートナーの転勤」のとき、というのが一番多かった。一期下の世代では、女性の海外駐在も可能になったが、実際にそれができたのは、独身を貫いた人と、パートナーが「芸術家」だった人だけだ。

働く女性の最大の敵は、世上言われるような「保育園不足」よりも、「転勤」ではないか、と改めて思う。

その昔盛んだった日本型終身雇用の中で、大企業では転勤(海外含む)がもれなくついてきて、その対策として「専業主婦」という仕組みが必要で、そのために年金とか保険とか手当とか控除とかいろいろくっついていて、企業のほうでも高卒や短大卒の「専業主婦」候補を、男性社員のために用意してあげていた。そもそも、そういったインフラで長期雇用を支えているから成り立っていた終身雇用が崩壊したのに、「転勤」だけが残ったらうまくいかない。ますます、若い人が結婚できなくなる。女性が全国・海外転勤のある仕事に就く決断がなかなかできない。

日本型終身雇用は、鉱工業が主力産業で、設備投資の足が長く、企業の寿命も長かった「社会主義が可能だった時代」には合っていたけれど、企業というより産業自身のライフサイクルが短くなる「サービス業時代」にはもう無理なのは明らか。もう昔日には戻れないので、仕組みとしては「フレキシブルな雇用」、個人の戦略としては「つぶしのきくプロ」を目指すのが良いと思っている。やり方はいろいろあるが、「フリーランスの拡大」というのはその一つのやり方。

上記の相談でも、前向きの答というのは、「自分は翻訳業だから世界のどこでもできる、そういう人を探せばよい」といったものだ。看護師や薬剤師などの資格業も、広い意味では動きまわることが可能な職業。一方、我が家の子供の友人家庭では、お母さんが公務員、お父さんはフリーのSEで、プレイデートの送り迎えにはだいたいお父さんが来る、というケースもあり、そういうパターンもアリだ。唯一のブレッドウィナーがフリーランスだと不安定だが、共働きでどちらかが定職ならばいろいろなヘッジができる。

でも、地味な私などがこんなことをブログに書いたって、人々のハイプ・フィルターを通すことはできない。もともと、私のブログを読んでくださる人は、こういう考え方に賛成なタイプの方が多いだろうが、全くこういう考えに馴染みのない人にも浸透しないと、フリーランスがどんどん雇われる世の中にはならない。

ならば、「ノマド」でもなんでもいいので、とりあえず「言霊ハイプ」に乗っかって、もちっと見栄えのよい女性とかに煽っていただくのもいいんじゃない、と思う次第。はやりに流され、ノリでノマドになった若者が火だるまになって焼け落ちるケースもあるかもしれないが、少々の犠牲は203高地を占領するためには仕方ない、というか、それで死ぬわけでもないので、灰の中から再び立ち上がるのも人生経験だと思って頑張ってくれたまえ。

<追記4/19>
なまじ職場での男女同権が進んだアメリカやイギリスでは、別の意味でやはり「転勤が障害」になっている、というお話をTwitterでいただきました。これも実感なのでご参考に。

MBA女性の10年後 | 世界級ライフスタイルのつくり方

*1:注:一応言明しておきますが、「ガラパゴス」は私の造語ではありません。私は「パラダイス鎖国」。韻を踏んでいるせいかよく間違えられます・・

現代の「タブー」

何を隠そう、大河ドラマの「平清盛」にはまっている。昔から時代劇が好きで、ここ数年大河はだいたい毎年見始め、途中リタイアする年も多いが、最近では「篤姫」や「龍馬伝」などは最後まで見通したし、「新選組!」はあとになってDVDで見た。(そういえば幕末モノばかりだな・・)当地ではTV Japanというケーブル局でやっていて、英語字幕つきバージョンを2ヶ月遅れぐらいでやっているので、「あー、この話ってあれの伏線だったのね」などを見つけられたりするのもまたヘンな楽しみ方。

これ、超低視聴率らしい。確かに、面白いとは思いながら、どこかに違和感というか、居心地の悪さをずっと感じていた。普通、大河ではなにかしら「メッセージ」が繰り返し語られることが多く、これがうまくはまらないとひたすらウザくなってしまうのだが、「清盛」では「メッセージ」が私には明確にわからないまま、ここまで来てしまった感じだったし、とにかくなにか「ザラザラ」した感じがある。私自身はヘンな映画とか、こういう「ザラザラ」を感じるものがかえって好きなのだが、普通の人はそうじゃないのだろうから、低視聴率も頷ける。

でも、先週の「祇園闘乱事件」でそのメッセージがようやくはっきりした形で出てきたように思った。それは、「タブーへの挑戦」。いや、NHKの方々が本当にそう思っているかどうかはわからないが、私が心惹かれる理由というのが自分でわかった気がする。

そう思ったら、ずっと感じているザラザラ感というのがソレだったというのもわかる。このドラマは小さなタブー破りをあちこちでやっているし、大きなものとしてずっと疑問に感じていたのが「朝廷の描き方」だ。

そういえば、と思って過去の大河ドラマを調べてみたら、80年代に3回ほど現代に近い時代を取り上げたものと、1978年「黄金の日日」という例外を除くと、1963年の第一回以来、テーマはほとんどすべて「武家」の物語。天皇や院が出てくることももちろんあるけれど、どちらかというと本流の話からは超然とした記号として存在するような扱い方だったように思う。(全部見ているわけではないので、違う例もあるかもしれないけれど、私の中ではそういう印象)これに対して、「清盛」では、これも主人公は武家だけれど、朝廷のドロドロ愛憎劇がこれでもかというほど本流の話として描かれている。(三上博史さんの鳥羽院の熱演、崇徳天皇と佐藤義清のあの描き方っていいの?などなど・・)「王家の犬」という言い方が最初の頃に叩かれたようだけれど、「タブー破り」はそもそも、この描き方にあるように思う。今までなんとなく日本の映像ソフト界にあったタブー(例えばロシア制作の昭和天皇の映画が日本では公開されない、というような・・)が、今やOKになったのか、それとも反発覚悟でNHKがあえてやっているのか?単に私の無知か?などといろいろ考えたりしていた。

祇園闘乱事件は、当時の、まさにタブーにがんじがらめにされた社会に対して文字通り挑戦したお話。史実としては本人が「神輿に矢を射た」わけではないのかもしれないが、まぁいいじゃない、これはわかりやすい。ストレートなタブー破り。そして、昨日の回では藤原頼長平家盛の関係。頼長の男色趣味は知っていたが、まさかそれをこういうふうに使うか!(山本耕史さんがノリノリ不気味なのに美しくてすばらしい・・)これは当時タブーではなかったが、現代のテレビドラマにおいては明らかに「タブー」の領域だったようで、ネットで話題になっている。

ザラザラ感が理解できて、すっきりしたところで、この先ますます楽しみである。タブー破りは、普通の人にとっては「不快感」「違和感」を引き起こすものなので、おそらくはこの先も低視聴率が続くのだろうが、幸い視聴率とスポンサーに振り回されないNHKだからこそ、私としては是非このままの路線で堂々と続けてほしいと思う。

このドラマの放映が決まったのは何年も前のことだけれど、たまたま昨年は日本で「原発」というタブーが否応なしに破られてしまったばかり。私の日々の仕事の中でも、魑魅魍魎の「日本企業にありがちなタブー」のようなものにぶち当たることが多い。先月の日経ビジネスオンラインのコラムで書いた「プライバシー」の件も、タブーの匂いがする。

タブーにぶち当たると、閉塞感を持つ。だから、世の中はその閉塞感を打破するヒーローを求める。メディアはそんな魔法の杖を求める論調でいっぱい。でも、実際にはタブーが破られたら多くの人は「不快」に感じ、反発し、叩く。ホリエモンはつぶされたし、グリーを叩く論調にも似たようなモノを感じる。両方のケースとも、私的には「本人たちももちっと、長期的に考えて行動すればいいのに」と思うこともあるので、タブー破りだけじゃないのだが、タブーにおののく周囲とは勝手なものだとも感じる。

現代にも、タブーはたくさん残っている。それを打破するのは容易なことではない。触りたくないから「タブー化」しているのだから。そして、そこに誰かが小さな小さな矢を射ようとすれば、妨害されたり無視されたりするのは当然で、それは覚悟の上でやらないといけない。クサッちゃいけないね。自戒、自戒。さて、今日はどこに矢を向けようか。