勉強しか取り柄がなかった私から。「逃げよ。」

Pollyannaさんのこのブログエントリー、私もすごく共感した。

http://d.hatena.ne.jp/pollyanna/20081224/p1

私も、小さい頃から勉強以外に取り柄がなかった。いじめられもしたし、そこまでいかなくても、仲間に入れてもらえないことは年中だった。容姿もダメ、歌や楽器や絵もヘタ、体が大きい割りには気が弱いのでスポーツもそこそこ、鈍くさくていわゆる「ストリート・スマート」でもなかった。勉強が好きだったかどうかすら覚えていないけれど、勉強しか取り柄がないと早くから意識していた。その上、前にも書いたように、ねじれた思い込みから「理系は苦手」と自分で勝手に信じていた。

「勉強」というコトバの定義など、どうでもよい。肌感覚として、本当にそうなのだ。勉強ができることの何が悪い、とずいぶん思った。

その後、幾年も経て、今なら思う。「逃げよ」と。そこが居づらいなら、自分を否定しない人々が集う場所、あるいは自分よりもっとお勉強のできる人々がいる場所を求めて、今いるところを逃げよ、と。

一橋大学にはいったとき、初めてその萎縮した感覚なくいられる、のびのびとした環境と仲間に出会って、ほっとした。スタンフォードビジネススクールに行ったら、今度は私は劣等生だった。上には上がいる。私の勉強のできかたなんぞ、全然たいしたことないんだから、気にする必要もないと思い知らされた。

この感覚は決して、「日本」だからじゃないと思う。理系修士号を持つアメリカ人の女友達も、同じことを言っていた。「大学にはいって、初めて自分が安心できる仲間と会えた」と。

別に、勉強に限らない。なんでもよい。とにかく、自分が取り柄と思うこと、好きだと思うこと、これをやっていれば安心と思うこと、そんなことを否定せずに受け入れてくれる人が、世界のどこかには必ずいる。その人たちの集まるところに逃げ込むといいと思う。

ユタ州は、アメリカ各地で迫害されたモルモン教徒たちが集まってできた。アメリカ自体も、ヨーロッパから迫害されてきた人々が逃げ込んでできた国だ。同じように、理系のお勉強ができるがゆえに「ギーク」と侮蔑されてきた人々が、各地で迫害されて逃げ出し、集まってできたのはシリコンバレーだ。

お勉強ができるのはよくないこと、と思って、まわりに遠慮して萎縮する必要はない。いいじゃないの、何ができるんでも。それで頭がよいと思われようが、悪いと思われようが、そんなのは見る人が勝手に言っているだけ。今いるところの周りで、誰もそれを肯定してくれないなら、どこか居場所を探して逃げてしまえばよい。物理的に完全に引っ越さなくても、今ならネットを使うとか他の逃げ方がいくらでもある。ここで私が言う「逃げる」は、一種の意思表明であり、積極的に他の居場所を探すための行動であって、あきらめて捨ててしまう「逃避」とはちょっと違う。文句を言っているだけでは環境は変わらない。その環境がいやなら、積極的に「自分はこういう場所はキライだ」という意思表明をすることだ。

教科書や本を読んで、自分の世界が広がるワクワク感。難しい数学の課題を解いたときの達成感。フランス語を習って初めて「r」の発音がちゃんとできるようになったときの爽快感。お勉強の中で得られる、そんな自分の感覚は、とっても大切だ。それがわからない人がいても、別にかまわない。小飼弾氏が違う考えを持っていても、彼は彼、あなたはあなた。そんなあなたに、共感を持ってくれる人は、どこかに必ずいる。それは、お勉強ができない人、お勉強以外のことが得意な人の「感覚」と、全く等価であって、どちらがよいも悪いもない。

3月に八重洲ブックセンターで言ったことの繰り返しにもなるが、上記、Pollyannaさんへの応援として書いておく。