「日本語が亡びるとき」と「母の本能」と「多様性」

ウルトラ長文御免。

友人の間ですでに一回り話題が一巡して終わっている、水村美苗著「日本語が亡びるとき」をようやく入手できたので読んだ。事前に思ったよりはるかに、私の「肌感覚」で感じていることに近い話であり、また後半に熱く語られる彼女の「主張」の部分については、私の素人としての漠然とした意見を「よくぞ言ってくださいました」と喝采したい。ほぼ、全面的に賛成である。

日本語が亡びるとき―英語の世紀の中で

日本語が亡びるとき―英語の世紀の中で


1.私自身の独白

私は、水村さんよりもずっと半端なバイリンガルながら、彼女の言う「読まれるべき言葉」の連鎖になんとかはいりたい、とずっともがき続けている身である。私自身、これまた彼女の定義する、広い意味での「翻訳者」としての立場で、「普遍語」から「現地語」への翻訳を仕事としている。大学を選ぶとき、すでにアメリカで高校交換留学生として1年過ごして帰ってきた私に、周囲は「なぜ英文科とか外国語科に行かないの?」「通訳とかになるんじゃないの?」と聞いたものだが、私自身は「他人の語る言葉を翻訳や通訳する仕事はしたくない」といって、社会科学を勉強した。しかし、何十年もごちゃごちゃ紆余曲折した挙句、結局は、コトバだけじゃないにしろ、「経営」や「技術」や「アイディア」や、そんなものを「英語から日本語に翻訳」する立場になっていることに気づいている。そして、「それだけじゃダメだ、自分も英語で書いて、中心的な世界に参加しなきゃ」というあせりが年々激しくなっている。

しかし、英語を話すことや読むことはできても、英語を書くのはえらくエネルギーがいる。ブログにこうして日本語で書くことは、私にとっては楽しみだからやっている。たまに「パラダイス鎖国」みたいなコトバを思いついたり、「家事とグーグル」みたいな比喩を思いついたりすると、それを「ねぇ、見て、見て!どう?」と書かずにいられなくなり、それを文字として吐き出すことは私にとっては「快楽」である。そうすると、誰かが星をつけたりブクマしたりしてくれるので、ますます面白い。いや、読むことですら、「休暇のときに楽しみで読む本」はほとんど日本語である。英語で読むのは知識獲得のため、日本語で読むのは楽しみのため、という棲み分けになりつつある。(この点も、本の中でズバリ指摘されていてドキっとした。)

でも、英語ブログに書くことは、それほどポンポンと湧き出してこない。頑張って書いても、たいして面白い比喩や警句がはいっているわけでもなく、中味で勝負の無味乾燥なものしか書けない。主に日本のことを書いているので、たくさんの人が興味を持つ話題でもない。この日本語ブログは、まだブログが黎明期を脱してすぐの頃から始めた「先行者利益」もあってそれなりに読者がいるのだが、そもそも母数が膨大に大きい英語のネット世界の中では、後発である私の書いたヘタな英語の記事が、その内容を知りたい人に届く確率はさらに低い。苦労して書いているにもかかわらず、書いていてときどき空しくなってくる。

それでも、それ以外のやりようがないことにも気がついている。「英語の世紀」がやってきてしまったこと、私自身がその中で「日本語という母語の世界」だけに安住できない性格と生い立ちの人間であること、にもかかわらず母語で読んだり表現したりする快楽は英語ではこの先も決して得られないこと、しかし「連鎖」にはいりたければ石にかじりついても英語でもっと書かなければならず、他に方法はないこと・・・そんな矛盾をすべて現実として受け入れざるをえない。

こうした「普遍語」と「現地語」の間で悩みながら、コトバの習得に膨大なエネルギーと時間を費やしてきた者として、この本に書かれていることは、「機械翻訳した文章を読んでも快くない」とか、細かいところでもう本当に、いちいち「そう、そうなんだよね!」と激しくうなづいてしまう。「空海の風景」について書いたエントリーも、自在に漢文を読み書きして「連鎖」にはいることのできた空海が、そういう自分の「実感と、諦観と、覚悟」の琴線に触れたからだ、と今改めて思う。


2.逆バイリンガルの子供達

さて、日本語を母語として英語をあとから習った私に対し、我が家の子供達はアメリカで生まれ育ち、英語を母語としてあとから日本語を習っている、日本人の感覚からすると「逆バイリンガル」である。

私から見れば「普遍語」である英語を「国語」として習っている子供達はうらやましい。前に少し書いたように、小学校から「自国語」としての深みを英語で獲得しつつあり、上のような私の悩みはこの先抱えずにすむ。とはいえ、おそらく我が家の子供達は、東アジア系人種のステレオタイプそのままに、将来は「理系」の職業に進むだろう。この本の中で東アジア人が「英語でなくともなんとかなる」数学や技術の分野になだれ込む現象が語られているが、これは「コトバ」の問題だけではなく、アメリカで生まれ育った東洋系も、種々の見えない壁(「ガラスの天井」)のために、「理系」をニッチとせざるを得ないのが現実であり、また幸いに本人たちもそのほうが適性がありそうだからだ。(「俳優になりたい」なんぞと言い出したら、あきらめさせなきゃいけないから大変だ)

にもかかわらず、私は過酷なほどに子供達に日本語学習を課している。「ずっとアメリカにいるなら、なんでそこまでやらせるの?」と聞かれることもある。「英語ができればいいじゃない」「土曜日に日本語補習校に行く時間、他のことに使ったほうがいいんじゃない」と言われることもある。他人だけでなく、本人たちも同じことを言う。それに対して、「そのうち役にたつ」とか「アニメで出てくる日本語がわかったらカッコいい」とかいろんな言い方で説得するのだが、自分でも「方便だな」と思いつつ言っている。自分でも、なぜそこまでこだわるのか、本音のところはあまりわかっていない。なぜなのだろう?とずっと考えているのだが、この本にそのヒントが少々あった。

一つには、再び本の中のコトバを借りると、日本語が「major language」だから、ということがあるだろう。本の中では「文学」や「言語」としてのmajorさが分析してあり、流れとしては同じなのだけれど、私の日常的な言い方をすれば、日本語は「趣味と実益を兼ねられる」数少ない非英語言語だ、ということになる。日本人の親として、というより、客観的に損得をはじくと、そういうことになる。

その昔三大普遍語に含まれていたフランス語とドイツ語は、要するに「できるとカッコいい外国語」である。日本だけでなくアメリカでもそうだ。これには、歴史的経緯と、言語の背後にある「芸術・学問・文化」の蓄積が作用している。しかし、商売の役にはあまり立たない。これに対し、アメリカで習う外国語として手近なスペイン語は、たいして「カッコよくない」外国語。芝刈りやお掃除をする人々のコトバだからだ。

今注目は中国語だが、将来性は確かにあるものの、せっかくの長い歴史と伝統を過去1世紀ぐらい連敗が続いて帳消しにしてしまい、「カッコいい外国語」とはいえなくなっている。また、将来性でなく現在のことを見る限り、「中国語圏の富」の規模は、日本語圏と比べてまだ小さく、その割に中国語のできる人の数が、日本語のできる人の数より圧倒的に多い、つまり「そのコトバのできる人あたりアクセスできる富の絶対量」は日本語のほうがまだまだ大きい。フランス語やドイツ語と比べても同じ比較が成り立つ。その上、日英バイリンガルはさらに希少価値。だから、90年代のように日本が「ホット」でなくなったとはいえ、まだまだ日本語は「おトク」なのだ。

そして、今や日本語は、フランス語・ドイツ語と比肩するまではまだいかないにしても、スペイン語や中国語と比べれば、「カッコよさ」から言っても上かな、という感覚があると思う。そういうわけで、全くどの外国とも縁のないアメリカ人でも、どれかを習うとしたら、「日本語」という選択肢は、今のところかなり現実的だろう。

その上、我が家のガキどもは、一応親が日本人なんだから、やっとかにゃー損、というわけだ。

日本人がノーベル賞を獲得したときに、息子にこういって説明した。「例えばこういう物理学の研究にお金を出せる裕福な国は、世界の中でも限られている。アメリカと日本は、世界の中でGDPの額が1番と2番。もちろん、英語ができれば、アメリカでも世界のどこでも研究することができるけれど、もう一つ日本語もできれば、さらに日本の研究機関にもアクセスができるようになる。(実際、彼の親しいお友達のお父さんは、アメリカの大学から日本にいい条件で引き抜かれていったので、さらに説得力あり。)分野にもよるけれど、英語以外で、先端的な研究や技術や商売にアクセスのある言葉という意味で、日本語は実は大きなポテンシャルがある。英語しかできないアメリカ人よりも、日本語と英語が両方できるあなたは、もっと広い世界に選択肢をもてる。一番と二番の国両方に、インサイダーとしてアクセスできるのだ。」彼はそれなりに腑に落ちたようだ。

でも、どうもそれだけでも、母としての私の腑にまだ落ちない。


3.そしてまた、多様性の話

我が家の周囲、アメリカでも最先端にコスモポリタンな北カリフォルニアでは、アメリカ人の先生や友人に、日本語を子供達に習わせることの悩みを語ると、判で押したように、「それは、やらせなければ勿体無い。無理にでもやらせておいたほうがいい。」と励ましてくれる。特に、前の世代で母国語を捨ててしまって自分は全くできなくなった、中国系や日系のアメリカ人はそう主張する。

それは、上記のような「実益」ということもあり、また「ガラスの天井」のある東洋人のハンディをアドバンテージに変換するマジックである、という点も大きい。

しかし、そうやって私を励ます先生は、相手が日本人や中国人でなく、モンゴル人やリトアニア人のようなマイナーな言語の家庭であったとしても、おそらく同じことを言うだろう。それは、一つにはこの地域特有のヒッピー的人類みな平等の「ユートピア思想」なのかもしれない。

そして、もう一つは、北カリフォルニアという地域が「多様性」を武器に繁栄してきた中で身についた「本能」なのかもしれない。

この本で語られる「英語の世紀は、この先ずっと続く」という記述は、漠然とは思っていたが、はっきりこうして字にすると確かに衝撃的である。その中で、あらゆる知識は英語の世界に吸収されていき、そのほかの言語は一段低い「現地語」となり、叡智の輝きを失っていくという可能性は確かに大きい。しかし、英語が圧倒的に世界を覆うようになったとき、「種の多様性」を失う危険性はないのだろうか?

理論的には、英語で世界が統一されてなぜ困るか、うまく説明できない。でも、観念的な話で恐縮だが、この地域の人々は、移民を世界から受け入れ、「希少価値」の各種バイリンガルを集め、多種の言語による多種の考え方の違いを混ぜ合わせることで、化学反応を起こして新しいものを生み出してきたのだから、「世界の多様性」が失われてしまうことはよくない、と本能の仕組みのどこかで、感じているのかもしれない、と思うのだ。

そして、もっともっと卑小なレベルで、母としての私は、人間が種の多様性を確保するために「近親相姦をタブーにする」などの仕組みを無意識のうちに発達させてきたものと同じ本能で、「子供に多様性の種を残したい」と思っているのかもしれない、とふと思ったのだ。

自信をもって言えるほどの理論ではない。でも、「英語の世紀」の中で「言語の多様性」というものが、どれほどの重みを持っているのだろうか。もし「日本語を亡びさせてはいけない」という命題があるとすれば、それは民族の誇りとかいうカッコいいものでなく、「多様性」を求める、ワケのわからない母の本能みたいなものかもしれない、とも思う。


4.最後に、パラダイス鎖国の「エリート論」と「教育論」

別の話。この本の最後の主張部分である、「英語教育は、日本全国中途半端バイリンガルを目指すな、少数を徹底的に鍛えて完璧なバイリンガルにせよ」とうい点は、全く同感。私は、「パラダイス鎖国」の本の中で、「日本人はすべて、脱パラダイス鎖国を目指せ」とは言わなかった。本当は、「エリートだけは必ず脱パラダイス鎖国を目指すべし」と言いたかったのだが、「politically incorrect」だと思ったので言わなかっただけだ。でも、場合によっては講演会などではハッキリそう言っている。

私がそう思った理由は、「だって、日本人全部なんてそもそも無理だから」という単純なことだが、この本では、その背景をもっときちんと説明しているので、読むべし。

そして、「日本語教育をもっときちんとやれ」というお話の部分。この本では、「広い範囲のレベルの高い文学をもっと読ませろ」ということを言っているが、もっと実利的な私の観点からいうと、無味乾燥な文でいいから、他人が理解できる文を書くための「訓練」をもっとやってほしい、と切に思う。

知り合いの日本のお母さんが、「最近の学校っていうのは、何も教えてくれない。水泳のクラスでも、レベル分けして、水泳教室行ってる子は上のレベルで勝手に泳がしてるだけ、全く泳げない子は、プールの中で歩いてるだけだ。泳ぎ方は自分で水泳教室で習え、ってことか!」と憤慨していたが、文章を書くという点についても同じことを思う。

文筆家でない、普通の人が社会に出て使う文章というのは、ある程度、パターンが決まっている。主題があって、副主題がいくつかあって、そこに説明や例を入れていく。要素を分解して、それぞれの枠を一つづつ埋めていけば、相手が読んで意味のわかる文章が書ける。そういう「マニュアル的」「機械的」なやり方でいいから、最初に教えてくれないものか、と思う。

本の学校で私が習った中でも、また今子供達が日本語補習校で習う中でも、こういった訓練はあまりない。作文の書き方といえば、「原稿用紙のマスの使い方」しか教えてくれない。(いまどき原稿用紙かいな・・・)読書感想文というのは、最初の何行で簡単にテーマを書き、次に主張したい点をいくつ書き出し、それに何を何行ずつぐらい、場面を例にあげて書き・・・みたいに、最初に教えてくれれば私だって書けただろうに、何もなしにいきなり「この本の感想文、夏休みの宿題」と言われ、「好きなように書きなさい」と言われる割に、「あらすじばかりしか書いてない」とか「面白かった、だけじゃダメ」とか、ダメダメばかり。読書感想文は大嫌いだった。「読書百遍、意自ずから通ず」とばかりに、いろいろ読んでいるうちに自然に書けるだろう、みたいなやり方のように見える。これでは、文章を書くということ自体を、子供達が嫌いになってしまう。

一方、ウチの子供達はアメリカの学校で、マニュアル的な文章を書く訓練をやっている。それを見て、「昔、日本語でこれをやって欲しかった!」と、(物書きを生業とする)亭主も私も、顔を見合わせて思わず同じことを言った。

「最近の若い者は文章が書けない」と憤る「若くない者」が多いけれど、どだいこの教育では、自力で書けるようになれる才能のある人、または別の人からちゃんと教わるチャンスのある人以外、「機械的な文章」を上手く書けるわけないと思う。そしてそれは、文章そのものだけでなく、「思考回路」が理路整然としていない、ということにもつながり、またそのために「普段からのつきあいのない人に対して、上手く話ができない、理解してもらえることを話せない」という問題につながっていく。

そして、日本語で「機械的な文章」をとりあえず書ければ、それを機械的に英語に置き換えれば、とりあえず「人に意味がわかってもらえる文章」が書ける。感動させるような美文でなくてもよい。とりあえず、それで英語のメールが書ける。

英語というツールを習う前に、あるいは完璧なバイリンガルになる少数のエリート以外の人でも、まずは日本語で「機械的な文章」を書けるようにすべきじゃないだろうか、と思う。なんでもかんでも、「ケータイ・メール」のせいにしている場合ではないのである。


パラダイス鎖国 忘れられた大国・日本 (アスキー新書 54)

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