いまどき、普通の人なら、英語が書ければよろしい

私が「英語習得」に関して興味を持つのは、「日本人としての外国語」という意味だけでなく、このエントリーで書いたように、わが子が「国語としての英語」にいろいろ苦労していることも作用している。両方の面から、「コトバを習得する」という普遍的な作業に関して、人の脳の発達や社会においてのコトバの使われ方、といったことをつい考察してしまう。

楽天の「英語公用語化」に端を発した「英語習得」議論が、引き続きTwitterなどで垣間見られる。日本企業の「英語公用語化」については、その企業の戦略方向性や企業体質によるので、そうしたいところはすればいいじゃん、というだけの話で、楽天に関して言えば、相変わらず体育会系のノリで三木谷さんらしいな、と思っている。(体育会テニス部出身の方なら、「三面振り回し〜!」の発想だな、と言えばおわかりいただけるだろうか・・・)「英語できないやつは辞めてよろし」というのが批判されて、「ノルマ○○が達成できないやつは辞めてよろし」が容認されるというのはよく理解できない。おんなじことじゃん。

その議論でよく「英語がしゃべれる」云々という言い方がしばしばされているのがちょっと気になった。大半の人にとっては、人と英語で連絡をとる必要がある場面では、今やほとんどメールで済むから、書けさえすればいいじゃん、と思うからだ。

明治以降、古い時代の英語習得の主眼は、読むことに置かれていたように思う。外国の情報を日本に取り込むことが最重要だったから、外国語の文献を読むために外国語を習っていた。

私が英語を学び始めた1970年代頃には、「英語が読めてもしゃべれない」ということが大きく問題となり、「英会話」の重要性が増して、旧来の「読む」ことを重視した勉強法が「古臭い」と思われるようになった。いつ頃からそうなったのかは定かではないが、少なくともあの頃はそうだった。それは、飛行機が発達して国際間の人の行き来が盛んになり、実際に面と向かって外国人と話をする機会が飛躍的に増えたことが背景にあるだろう。そして、電話屋として我田引水すれば、「テレックス」の時代から「電話」の時代に移行して、「電話で話をする」ということが必要になってきたから、とも思う。テレックスでは伝えられない細かい内容は、旧来どおり手紙を書くか、または電話で話をするしかなかった。

その後ファックスが普及して、今度は「書く」ことによるコミュニケーションの時代への移行が始まる。そして90年代、eメールが通信のデフォルトになり、文書を添付したり、ウェブにアップしてURLを添付するという方法により、大量の情報を文章により相手に伝えられるようになった。旧来の手紙の時代よりもむしろ、文章を書くことの頻度も重要性も、これまた飛躍的に高くなり、「書く」時代への移行は決定的になった。

いつの時代でも、一部の直接海外との取引にたずさわる人々にとっては、外国人と直接話をしたり外国に住んだりする機会も多く、そこで人的関係を築くためにはどうしても「しゃべる」ことは必要だ。それは今でも全く変わらない。しかし、マクロ的に見れば、大多数の人は今や、「英語でメールを書く」ことができれば、だいたいコトは済むのじゃないかと思う。メールを書く機会に比べ、しゃべる機会は圧倒的に少ないので、そんな滅多に無い機会のために英会話を勉強して、発音に苦労するのはバカバカしい気がしてしまうだろう。

なので、なにかといえば発音が云々とかいう、英会話重視の勉強法が、私には時代遅れに思えてしまう。それは、「電話の時代」の発想だ。

そりゃもちろん、きれいな発音で英語が話せればカッコいいに決まっているが、多くの人にとって、そのためにものすごい時間とエネルギーをつぎ込むことは無駄。それより、前回エントリーで書いた、「機械的な文章を書く」訓練をして、英語でそれができるようになるほうが、今や決定的に重要だと思う。学校でそれをやってくれなければ、自分でやればよろしい。

書くことは易しいことではない。まずは読めなければ書けないし、話すときよりもきちんと文章を組み立てられなければいけない。でも、発音に苦労する必要はない。文学を書くのではなく、メールを書けるぐらいが目標ならば、機械的な文章のパターンをいくつも覚えればよい。会話と比べて反応時間が長いので、ゆっくり考えたり、推敲したり、語彙やスペルをウェブで調べたりしながらやればよい。敷居はむしろ低いと思う。

なお、英語至上主義がいけない、というエントリーもどこかで読んだ(Blogosだったと思うが忘れた、見つからない)。それも理想論としてはわかるけれど、これまた「多くの普通の人」にとっては、英語以外の外国語を習得したところで、メシのタネになる確率は極めて低い。英語以外の言語は本当に好きな人だけ、または必要性の高い人だけやればよいと思っている。私は「好き」だったので、高校から大学にかけてかなり激しくフランス語をやり、20代は必要に迫られてスペイン語を勉強したけれど、その後の人生でこれらがメシのタネになったことは一度もない。人生が豊かになったので、それはそれでよかったが、それまでである。今後の世界でおそらく唯一の例外が「中国語」かもしれないと思うが、中国語本位時代はまだ少し先だろう。

人間、それぞれに時間やエネルギーや能力には限界がある。その限られたリソースを外国語の勉強に割り当てるということを考えると、「メールを書ける程度の文章を英語で書く」ということを目標にしてやるのが、今の時代には一番合っている、と私は思う。