AT&Tの落日

米国テレコム業界の表と裏

アメリカの通信事業者(キャリア)の世界には、表通りと裏通りがある。表通りは、日本でいえばNTTやKDDIアメリカならばかつてのAT&Tや現在のSBCとベライゾンのような「ちゃんとした」キャリア。大企業や一般消費者にサービスを提供して、テレビで広告をやっているような企業である。一方、裏通りの最もディープな例は、大都市のスラムで、自宅に電話をつけられない貧しい移民が、その日に道路工事でかせいだお金を握りしめて、故郷の南米やアフリカに電話をかける「国際電話屋」を運営する、ニッチ・キャリアである。

この両極端の間に、数多くの電話会社が存在する。米国には、FCCに登録されているものだけでも、ローカル電話会社が1300社、長距離電話会社が500社以上ある。この数は、90年代前半頃からほとんど変わっていない。この大半は裏通りに属する。スラムでなくても、中小企業専門のディスカウント・キャリアとか、プリペイド・カード専門キャリアとか、いろいろな種類のものがあり、これらを私は「ドブ板キャリア」と呼んでいる。

SBCはなぜAT&Tを買収するか

日経新聞には、SBCはAT&Tを買収して、VoIP(Voice Over IP、インターネット電話)を大々的にやろうとしている、という意味の解説がしてあったが、私はちょっと違和感を覚えた。ウォールストリート・ジャーナル(WSJ)を読んでいる業界の方にはすぐおわかりだろうが、SBCはAT&Tの大企業顧客、特にニューヨークを中心とする東部一帯の上位層顧客が欲しいのである。

米国のVoIPは、起源は古いが、いまだに「ドブ板キャリア」の守備範囲にある。日本ではかなり表通りに出てきた感があるが、米国では普通の電話料金が安すぎて、VoIPのメリットがほとんどないのだ。VoIPのメリットが一番生きるニッチは、普通なら料金の高い発展途上国向けの電話であり、ここでしか生息できなかった。最近ではVonageなどの新スタイルのVoIPキャリアも登場し、ケーブルテレビ会社も始めるなどの動きはあるが、まだ全体の電話顧客数の1%以下である。

だから、昨年秋にAT&Tが消費者向けの一般電話サービスをやめてVoIPに集中する、と発表したときは、「ああ、ついにAT&Tはドブ板キャリアに身を落としたか」という感慨があった。確かに、AT&Tはまだ大企業顧客市場では大きなシェアを持っている。しかし、これもAT&Tの強さというより、MCIはスキャンダルで没落、SBCとベライゾンは地元以外に知られていないし、企業向けノウハウがない、という「敵失」のせいである。そして、テレコム業界ピラミッドの最頂点である大企業市場と、最下層のドブ板VoIPの両方をビジネス・ラインとして持つ、というのは、Identity Crisisか精神分裂状態にしか見えなかった。

どう考えても、長いことこれで事業を継続するのは無理である。身売りは時間の問題だった。そして、買収するとしたらベル会社のどれかであり、目的は大企業顧客であることも、ずっと前から明白だった。

AT&Tの終わりの始まり

もちろん、1984年のAT&T解体が、長期的な意味での終わりの始まりであるが、もう20年も前の話で、その後のやりかた次第では終わらなくてすんだかもしれない。

次の節目は、1996年の新通信法である。詳しい説明はここでは省くが、簡単に言えば、84年の解体時に人為的に作られた、「リッチな長距離セクターがプアなローカル・セクターをsubsidizeするしくみ」が、新通信法をきっかけに崩れ始めたのである。この時期、バブル期の過剰設備建設も加わる。ここで、「長距離セクターの長い死」が始まった。

そして、棺桶のふたに釘を打ったのが、他でもない、AT&T自身なのである。当時、まだAT&Tの一部だったAT&Tワイヤレスが1998年に導入した「デジタル・ワン・レート」という、携帯電話の新しい料金プランである。ローカルも長距離も区別のない、全米どこでも同じ料金という、当時画期的なプランであった。他の携帯電話キャリアも追随して、長距離電話トラフィックはなだれを打って携帯電話へと流出したのである。

テレコム・セクターの縮小と一本目の電話

しかし、それでもテレコム・セクター内のパイの奪い合いの話ならば、SBCとAT&Tの合併後の会社も、まだ見通しは暗くない。問題はテレコム・セクター全体が縮小していることである。消費者におけるeメール、チャット、ブログ、企業におけるコラボレーション・ソフト、ネットテレビ会議など、ありとあらゆる形で、音声でコミュニケーションする場は縮小し、市場を奪われている。これは、どうやっても変えることはできない、大きな時代の流れである。

にもかかわらず、「一本目の電話」をやめるワケにはいかない、というのもまた問題なのである。VoIP、ブロードバンド、携帯電話といった華やかな成長分野は、いずれもすでに「基本の普通の電話」があって、そのほかに別の目的で利用する「2本目の電話」である。携帯電話は米国でも人口普及率が50%を超えているが、固定電話を解約する人はまだ全体の7%に過ぎない。ブロードバンド電話はますます、まだ端緒に付いたばかりである。

インターネットの第一次ブーム(98年頃まで)は、モデム向けの2本目の電話、という金のなる木があったが、もう今後、そんな偶然の幸運はないだろう。かといって、基本の電話はこの先も長いこと使われ続ける。これは、今後一体、誰がどういう形で担っていくのだろうか?