テレビ映像の「パンドラの箱」


例えば、何かのきっかけである日本の俳優が気になったとする。ネットのない時代だったら、アメリカのテレビにも雑誌にも出ないし、日本語テレビにもほとんど出てこないので、情報の得ようがなく、そのままで終わるだろう。しかし、今だったら、ちょっとネットでググれば、いくらでも情報が手にはいる。公式サイト、ファンサイト、映画ニュース・サイト、映画データベース・サイト、ファンの掲示板やブログなど、読んでいるうちに、ファンがこの俳優のこんな映画がよかったとか、こんなところが素敵だとか言っているのがわかり、ますます気になる。そして、ネットで入手した作品リストを頼りに、レンタル・ビデオやネット販売で、過去の作品を漁るようになる。

それだけでは終わらない。DVDやビデオになっている作品を大体見終わってしまうと、「3年前の何月何日にテレビのバラエティ番組に出たときはこうだった」「5年前の舞台はすばらしかった。それは何月何日に○○テレビ中継された。」「7年前に出ていた○○のコマーシャルは面白かった」などということまで、ネットには書いてある。当然、こんなものまで見たくなってしまう。

CDでだいたいコトがすむ音楽と比べて、テレビで流れている映像資産の量ははるかに大量で、多岐にわたる。このうち、パッケージ化されている、すなわち「ネット以前の経済」で利益を生む規模の市場が見込めるものは、ほんのわずかにすぎない。それ以外のものは、テレビ局の倉庫に眠っているだけだ。テレビ局が再放送しない限り、こうしたものが存在することさえ、それをリアルタイムで見た人の記憶以外には知られることはなかった。

ネットのおかげで、この「パンドラの箱」が開いてしまったのである。

もちろん、内容を文章で書き下してあるものもあり、どんなものかは大体わかる。しかし、映像は実際にそれを見ないと価値がない。どんなに見たくても、合法的には決して手に入らない。録画して持っている人を探し出し、ダビングしてもらう以外に方法はない。

それでは、録画して持っている人が、それをデジタル化してネットで流したらどうなるか。当然、現在の法律からすれば違反だが、テレビ局の売り上げがその分減る、といった直接的な被害があるわけではない。ファンにしてみれば、合法的に入手する手段がないのだから、仕方ないじゃないか、と言いたくなるだろう。

映像だけでなく、廃盤になったCD・レコード、バックナンバーの入手できない過去の雑誌に載った写真、などについても同じことだが、おそらくこうした、パッケージ化されていない、最も価値の大きい眠れる資産は、テレビ局の映像だろう。パンドラの箱をあけたネットのおかげで、寝ている資産の価値が急に高くなってしまったのだ。

これらは、「ある特定の人々にとって」だけしか、価値がない。雑誌「Wired」や梅田望夫さんの言う、「The Long Tail」の典型である。モノであれば、EBayがこういうモノを市場化している。本ならば、相当のレアなものまで、Amazonで手に入る。iTunesや各種Pod Castingのおかげで、音楽もかなりLong Tailの先まで入手できるようになったし、パッケージ化されてさえいれば、映画もNetflixでほとんどなんでも手に入る。

しかし、テレビ映像にはまだ、Long Tailをネットで市場化するしくみがない。開いてしまったパンドラの箱を前に、ファンは呆然と立ちつくすしかないのだ。最後に、「希望」が出てくることを祈って。