旧メディアの生き残り策は「情報から作品へ」の転換では?
だいぶ以前から、ネットで流通するコンテンツは、「情報」と「作品」の両方があるね、という話をしている。詳細は下記参照。
展示会で見たIPTVへの序章,テレビは「情報」か「作品」か | 日経 xTECH(クロステック)
両者は完全に線引きができるわけではなく、境界はあいまいだが、「情報」は中味だけが大事で箱は捨てちゃっていいもの、「作品」は箱も全部ふくめて価値があるもの、という区別。例えば、現在のデファクトスタンダードにおいて、「単にいつ何があったか」というベタ記事情報には著作権が認められないが、「それにインタビューや映像をつけて独自性を出した記事」には著作権がある。前者が純粋な意味の情報で、後者は作品に近くなる。ほとんどの場合、情報はあまりに単位が小さいためにそれだけではお金にならないが、作品は売ることができる。
情報の「箱」は捨てちゃっていいものなので、提供側も受け取るほうも、なるべく安いほうが全体のコストが安くなるので好ましい。このため、「情報」の乗り物は、どんどん安価なものへとシフトする自然な傾向がある。そうすると、技術的に古くコスト高となってしまった旧メディアは、生き残ろうとすれば、自らの持つ「新メディアにはない魅力」を最大限に生かすような方向で差別化し、高付加価値で売れる「作品化」を目指すしかなくなる。そうすると、売れる量は減ってしまうので、規模は小さくなり、それにあわせた販売ルートやパッケージ化へと変化しなければいけないが、なにしろそうすれば生き残れる可能性がある。「本」や「音楽」でもおなじような傾向がある。
例えば、テレビの普及以前には「ニュース映画」というのがあった。「劇場映画」にくっついた「無料のおまけ」として情報伝達の役割を果たしていた。しかし、テレビの登場で「映像ニュース」の乗り物はより安価なテレビへとシフトし、ニュース映画は消滅した。残った映画は、長い荒波を経て、現在も「作品」として生き残る。その過程では、テレビドラマとの明らかな差別化(大型画面に合う表現方法やテーマ、2時間完結というフォーマット、国際流通のしくみ、などなど)要素を積み上げてきたわけだ。
現在、テレビがネットに押されているのも、「情報」の乗り物としての性質からいえば当然避けられないわけで、アメリカのテレビ業界はその現実に合わせて「作品化」の方向へ突っ走りつつあると私には思える。大型画面テレビへの移行も、映像的に美しい番組を指向した「作品化」を促進している。
ニュース番組なら「ラリー・キング」のように有名ホストとゲストが出てきてしゃべったり、徹底的に特定のネタ(スポーツニュースとか、ローカルニュースとか)に絞って深堀するなど、特色を打ち出す。スポーツ中継では、高価な手法を用いてデータ解析やそれの映像表現を行い、それを使って有名コメンテーターに面白いことをしゃべらせる、などの付加価値をつける。こういった、「ニッチ化」による作品化をしているのは主にケーブル向け有料専門チャンネルであり、彼らは「加入料」を払ってもらうためにまさに作品化努力の歴史が長い。最初から作品指向である。
これに対し、落日の地上波では、二極化傾向があるように思う。「CMに支えられた無料放送」の部分は仕方ないので、「地上波しか見られない一般大衆(もっとはっきり言えば下流、アメリカでは地上波テレビのみは全世帯の15%)中心」の低コスト番組(「発言小町」をそのまんまテレビでやっているような朝の主婦向けトークショー、視聴者参加型リアリティ・ショーなど・・・)を指向し、一方「上流向け」では、お金をかけて有名俳優を揃えたしっかりしたドラマを作り、それをDVD化・海外販売などのパッケージ販売で高マージンをあげる。典型的な作品化を行っているわけだ。ドラマをパッケージ化するつもりで、最初から権利関係をそのために最適化しておけば、あとは映画と同様に、海外販売、再放送専門ケーブルテレビ局への販売、iTunesなどのネット販売などへの展開も比較的簡単にできる。
それで成功するのかどうかはなんともいえないが、これまでの歴史を見ると、その方向しか生き残りはできないのではないかと思う。
日本でも、例えば「ニュースがワイドショー化している、お笑い芸人ばかり」というのは、上記のように生の情報の乗り物としてテレビの価値はすでに無いので、なるべく低コストで付加価値をつけるためにどうしてもそうなってしまい、しかもアメリカと同様、地上波は「一般大衆」メディアでありかつ「視聴率」でお金の多寡が決まる仕組みなので、そういう方向に向かうのは仕方ない。それを「視聴率至上主義、テレビの低俗化」と嘆くのは当たらないだろう。
民放局はCMによる無料放送であり、芸能人のビジネスモデルが「安い出演料で番組で顔を売りCMで儲ける」という構造であり、だからそれに支配されているテレビ局でもCMから分離して番組だけパッケージ化するのが困難、だからすべてがテレビCMの地盤沈下に引きずられる、という罠にはまってしまっているように見える。一方、CMの罠と無関係なNHKだけが、やや異質な「作品化」指向に向かっているように見える。(「天地人」のDVD完全版なら7〜8万円で売れる。)
もし民放がメディアとして生き残ろうとしたら、作品化が自由にできるメディア(専門チャンネルとか、ネット放送とか・・・)を作るか、あるいはアメリカのテレビ局のようなやり方ができるようにがんばるか、いずれにしても作品化の方向に向かうしかないのでは、と思う。テレビ局が連続ドラマを映画化するのは、その一つの現れだろう。その過程で、規模の縮小は避けて通れない。地上波民放が5つもあるのは多すぎるとうことになるかもしれない。
そんなことを考えたのは、藤代さんのこの記事を読んだのと、自分でもTwitterが広まって以来、「情報はTwitter、ブログは作品用」とだんだん使い分けるようになってきたなぁ、と思ったからだ。ブログはネット世界では一世代前のメディアとなった一方、非常に少ない額ながら、ブログに書けばアマゾンのアフィリエートとかAMNさんからの広告料とか、一応「売れる」し、まとまったことを書くときはやっぱりブログ、ということに結果的になっている。そんなことから、「情報の乗り物」と「作品の乗り物」の違いを考えてしまった。
なお、Twitter論が盛ん(津田さんの本はまだ入手してないが・・・)な中、「メディア」としての意義はあちこちで語られているが、私は「通信」としての意味合いに興味を持っているので、それについてまとまった文章をKDDI R&Aに寄稿し、近日公開予定。この方面にご興味ある方はのちほどご参照ください。(掲載されたらお知らせします。)