イギリスは「グレースフルなる衰退」をしているのか
池田信夫先生の記事を読み、この本を読んでみた。たいへん面白かった。

- 作者: 川北稔
- 出版社/メーカー: 講談社
- 発売日: 2010/10/16
- メディア: 新書
- 購入: 4人 クリック: 102回
- この商品を含むブログ (53件) を見る
私はたまたまこれまで縁がなく、英国を初めて訪れたのは今年の夏だった。世界を歩きまわるのが趣味だった若い頃から一転、子供ができてからは身の自由がなくなったので、全く初めての国に行くというワクワク体験は15年ぶりぐらい。それも仕事でもなく、家族の面倒を見るdutyからも解放され、一人きりで、朝起きて今日は何をするか好きなように決められ、さらに気のおけない古い友人たちと会うこともできたという、人生最高の休暇だった。
まぁ、そういった非日常高揚感の中で見たので、初めて見た英国の風景は、もしかしたら事実よりも美しく歪曲されて私の目に映っていたのかもしれない。お気楽ミーハー観光客をやっていたので、キレイなところしか見ていないのも事実。それでも、町中がディズニーランドかと思うほど、隅々まで古い時代のままのケンブリッジ、郊外通勤列車から見る美しい田園、その昔ビートルズの映画で見たままのロンドン市街など、郊外も街中も、お伽話の絵本のような風景が続く。例えばニューヨークやサンフランシスコなど、アメリカの大都市なら、薄汚い地域がどうやっても避けられないほど膨大に広がっているが、たまたま私の動線の中にはそれが見えなかった(もちろん、ロンドンにもあるのだが)。あるいは日本の古都、京都や鎌倉だったら、お寺や史跡周辺以外の部分は、普通の都市と同様、空調や防災の機能を備えた普通のビルが立ち並んでいるが、ロンドンの中心街はそれすらない。それでも金融・商業・ファッション・文化施設などが集中した大都市で、便利で生活水準は高い。
イギリスはどうして、こんなにキレイなのか。一説には、イタリアと同じで、老大国となって「観光立国」が今や至上命令で、ロンドン・オリンピックに向けて大整備やってるから、という話も聞かれた。それにしても、地価の高いこの大都市でこんなに効率の悪い建物や仕組みを残したままで、どうやってこれが成立しているのか、本当に不思議だった。何百年にもわたって蓄積した富がインフラとして固定化された結果だろうと漠然と思うけれど、現在では(少なくとも相対的には)「衰退」している国で、どうやってそれをうまくやっているのか。
通信で「graceful degradation」という用語がある。日本語でなんというのか知らないが、無線において、回線速度が遅い環境の場合に、機器側が自動的に対応して処理スピードを合わせて落としていくことを指す。その用語を使うと、日本が衰退するのは仕方ないが、どうせやるなら「グレースフル」にやりたいものだなぁ、と常々思っていたが、イギリスはうまいこと「グレースフルなる衰退」をできているんじゃないか、と思ったわけだ。
それをどうやって戦略的にできるのか、という回答がこの本で得られるかと思って読んだのだが、残念ながらその部分はあまり言及されていない。「衰退論」の部分は、「果たしてイギリスは衰退しているのか」という点だけに絞られていた。本自体は、近世から産業革命に至るイギリスで、「消費」や「生活」面から見てイギリスがなぜ発展したのか、という点については非常に面白く、例えば「産業革命の初期、大量生産された製品はおもに生活用品で、それを買ったのは主婦であって、彼女らはどこでをれを買うお金を得て来たか」といった、社会構造や家族といった観点からの分析や、「中核と周辺」「世界構造」といった分析モデルもわかりやすい。いろいろと参考にしたい部分が多いが、「グレースフルなる衰退」のモデルについては、継続検討ということになりそうだ。
ノーベル賞の「3対1」
今年は、日本出身のノーベル賞受賞者がざくざく出ているということで、いやな話ばかりが多い中、嬉しいニュース。
その中で、物理学賞の益川氏が、「英語が嫌いで、海外にも一度も出たことがない」というニュースを読んで面白い人だなー、と思った。いろんな人がいる。ただ、これをもって「だから、英語勉強しなくても、英語で論文書かなくても、海外に出なくてもいいんだ」と普通の人まで思っちゃったら問題かな・・・とふと思ったので、一応メモ。
スティーブ・ジョブスもビル・ゲイツも大学は中退したので、別に大学行かなくてもいいんだ・・という話にはならない。あれほどの大天才だったら、環境がどうあれ成功できるだけの力があるだろうけれど、じゃぁウチの「普通」の子供達がそれでいいかというと、やっぱり違うだろうな、というのが親心。普通の子だからこそ、ちゃんと大学行ってほしいと思う。
それと同じで、益川氏は大天才だったのでそれでよかったんじゃないか・・・と私などは思うわけだ。その証拠に、他の3人は、「米国籍取得済み」「米国大学で研究」「海外にいろいろ出ている」方々ばかり。やっぱり、グローバルにやっといたほうが確率高いと思う。
アメリカに住んでるウチの子供達の場合は、日本に住んでいる人と逆に、「アメリカだけじゃーダメだ」「日本語ができるとこんなにいいんだぞ」ということを口うるさく言っている。日本語学校の宿題は相変わらず大嫌いだけれど・・・
今更、グローバルとは(1) 「平安のイチロー」と「現代の長安」
瀬戸内寂聴さんがケータイ小説を匿名で書いていた、という話を聞き、もともとファンだったけれどますます好きになった。さすが、この方は突き抜けている。
それで、思い出したのがこの本。少し前に、たまたま書架にあったのを手にとって読んだらえらく面白かった一冊、じゃなくて上下2冊。

- 作者: 司馬遼太郎
- 出版社/メーカー: 中央公論社
- 発売日: 1994/03/10
- メディア: 文庫
- 購入: 9人 クリック: 42回
- この商品を含むブログ (102件) を見る
なんで思い出したかというのはほとんどこじつけだが、私は関東生まれで、鎌倉仏教には割りと親しみがあるけれど、「最澄と空海」、「天台宗(顕教)と真言宗(密教)」、「比叡山と高野山」の区別はほとんどついていなかった。この本を読んで、初めて一応の区別がついたのだが、空海と対比される「天台宗」のほうで私が知っている人が寂聴さんしかいないので、読んでいる間、私の頭の中では天台宗代表として常に寂聴さんが登場していた、というわけだ。
さて、仏教の区別だけでなく、いろいろな意味でこの本は面白い。その中で、「グローバル」とはどういうことか、というのを考えた。
空海というのは、「超人」だった。奈良時代から平安時代への変わり目という、まだまだ地方の庶民は竪穴式住居に住んでいたような時代の田舎豪族の出でありながら、自力で仏教を勉強し、中国語会話や漢文をマスターし、「人たらし」の才能を頼りに遣唐使船に無理やりもぐりこんだ。
彼が行き着いた先の長安の描写が、すごい。この頃は、唐の最盛期であり、長安は当時世界第一級のコスモポリタン・シティであった。インド、西域、ヨーロッパからも人が集まり、学術でも技術でも芸術でも、これらの人々が切磋琢磨し、唐の皇帝もこうした外国人を重用した。そんな中、遣唐使船が難破してボロボロになってたどり着いた田舎留学生である空海が、持ち前の中国語会話、書・漢文、人たらしといった才能をここでも遺憾なく発揮して、次第に名声を勝ち得ていく。
本国で身分が低かろうが、無名だろうが、才能さえ認められれば人々は彼を賞賛し、信頼する。そしてついに、密教の本山において、居並ぶほかの長年の弟子たちを飛び越えて、空海は師から「正当な後継者」の座を受け継ぐ。
2年後に日本に帰国した空海は、日本に密教を伝えたり、書から土木工事まで、ワケのわからないほどのいろいろな分野で功績を残す。しかし、司馬遼太郎は、彼はずっと長安への特別な思いを抱いていたのではないか、と想像する。彼が作った高野山というのは、長安の都を再現しようとしたのでは、という。
その理由は、長安における知的レベルの高い人々との交流と切磋琢磨のスリルであった。日本に戻って、天皇とも仲良しになり、歴史に大きな名を残すほどになっても、彼自身は、その点で満たされなかったのだろう、と作者は考えている。
現代の超人、野球のイチローが、アメリカにずっといるのと同じことなんだろう、と想像する。たとえ日本のほうがお金をたくさんもらえる状況であっても、コスモポリタンな場所でのレベルの高い切磋琢磨のスリルをいったん味わい、そして自分のことを評価されてしまったら、面白すぎてもう戻れないだろうと思う。それは、仕方がないことだ。
以前、ニューヨークにいた頃にピアノを習っていた先生は、日本人のジャズ・ミュージシャンだった。ニューヨークでは、競争が激しすぎて、私のような素人に教えたり、時々日本に出稼ぎに行かないと食っていけない、ニューヨークだけで食っていけるのは本当に一握りの人たちだけで、あとは皆同じような境遇だと言っていた。それでも、やはりニューヨークにいなければ、そういう人たちとつきあって切磋琢磨できないし、それがお金よりももっと魅力的だから、食えなくてもみんなニューヨークにいるのだ、と言っていた。
シリコンバレーでギークたちが目を輝かせているのも同じことだ。ここはアメリカではない、インド人とロシア人と中国人ばかりだ、という揶揄は全く的が外れている。世界中からトップのギークが集まってきて、言葉がヘタでもすごいコードさえ書ければ尊敬されるし、プロのアントレプレナーたちがその辺でごろごろ酒を飲んで騒いだりしているからこそ、ここはすごいところなのだ。
アメリカのすべてが、グローバルだとは言わない。「パラダイス鎖国」の中で書いたように、基本的には日本以上にパラダイス鎖国の国だし、スマートフォンがアメリカ版ガラパゴス携帯だ、という話も書いた。実際、携帯の分野ではアメリカは「田舎感」があり、世界の中心は欧州という印象がある。だが、「野球」や「ジャズ」や「ギーク」の世界では、間違いなくアメリカ(のそれぞれ一部の都市)は「現代の長安」だと思う。ついに大爆発してしまったが、「金融」におけるニューヨークもそうだった。
今なら、空海やイチローほどの超人でなくとも、それぞれの分野でトップの場所に身を置こうと思えばできるのは、本当にすばらしいことだ。競争は激しくてつらいけれど、その中でもまれることは、麻薬のような魅力のあることだ。
そして、そんな世界の高みでは、ほんのすぐ近くに、グローバル・レベルのものが広がっている。それはすなわち、その場にいなければできない「人のつながり」である。高みから広い世界に、人と人とが広くつながっているし、そういう人たちといつもつきあっていれば、才能や業績だけを見て評価できる目も肥える。人の評価は難しいからこそ、それができない場合には、国籍や学歴や家柄などといったことに頼らざるを得なくなる。
「平安のイチロー」である超人空海は、当時の日本としてはありえないほどのグローバルな人だったようだ。そして、「現代の長安」は、それぞれの分野でいろいろな場所にあるが、アメリカにはそれがたくさんあるのは、悔しいけれど事実なのだ。
Blog Action Dayと「共感のグローバル」
AMNの徳力さんからご案内をいただいたのをきっかけに、Blog Action Dayに参加することにした。
Blog Action Day 2008をAMNが日本のパートナーとして支援|アジャイルメディア・ネットワーク(AMN)
http://blogactionday.org/jp
最初は「We are the world」みたいなもんか?という印象だったが、別の英語のブログ記事で「ブログ・バージョンのフラッシュ・モブ」である、というのを読んで納得して、参加する気になった。このブログと、細々やってる英語ブログの両方を登録している。
10月15日を期して、世界中のブログ運営者が、「貧困」というテーマでエントリーを書く、という企画である。別に登録しなくてもいいのだが、登録しておくと、どのぐらいの数のブログと読者が参加したか、というのを把握できるということで、登録を促している。興味のある方は、このブログの右柱にあるアイコンからサイトにはいれる。寄付なども募っているが、とりあえずお金のことは気にせず、今回は「フラッシュ・モブ」のノリで参加してみるつもり。
このような企画は、このところ私が感じている「共感のグローバル」の典型だ。このところ、「第三のグローバル」という問題についていささか考えている。「パラダイス鎖国」の本の中で、ぼんやりと考えていながらはっきり文書にあらわせなかったこと、あるいは多くの読者の感想や批評を読んで感じていることが、少しずつ形になってきたように思う。それで、久しぶりに、「第三のグローバル」のカテゴリーで、少しずつシリーズで書いていこうと思っている。(「第三のグローバル」の定義は別のエントリーで書くので少々お待ちを・・・)
「パラダイス鎖国」が出た少しあと、ゴールデンウィークに「若者が海外旅行をしなくなった」という現象につき、テレビ朝日に取材され、本に書いたのと同じことを意見としてお話した。その後も、いろいろな方から「そうだよねぇ、最近は海外のことなんかネットでいくらでも情報がはいるし、目新しいことなんてないよね。行かなくても済んじゃうよね。」という感想を聞いた。そのとおりだと思うのだが、だから必ずしも「鎖国する」ということにはならない、というのをどういえばいいか、わからなかったのだが、最近少しわかったような気がする。
私を含む旧世代の「海外旅行」は、「違い」を求める旅だったんじゃないかと思う。私がアメリカに初めてやってきたとき、見るもの聞くもの食べるもの、何もかもが強烈な体験として襲ってきた。その強烈な「異国感」というか、「エキゾチシズム」を求めて、その後も私は、学生時代に海外貧乏旅行をずいぶんした。
でも考えてみれば、「エキゾチシズム」はいわば「出会い頭」のショックであって、「旅行」としては楽しいけれど、それが何か生産的な活動につながるためには、そのショックを消化するための長い時間がかかる。何かを感じても、自分は何からアクションを起こすべきなのか、方向性がはっきりわからない。
ネット時代以降のグローバルは、こうした「違い」や「エキゾチシズム」のショックを求めるのではなく、「共通のもの」「共感」を求めるものじゃないか、と思うようになっている。今まで、「国」という縦割りの中でしか得られなかった類の「共感」を、世界各地の共通の興味を持つ人たちとの間で、「横串」をさしたように、薄く広く、感じることができるようになったのが、「双方向性」と「伝播性」を兼ね備えたネットの時代の特徴だ、と思うのだ。
その「共通の興味」が、このBlog Action Dayの「貧困」のような、ユニバーサルで重大なテーマの場合もあり、あるいは「この映画のファン」程度の話の場合もある。どの場合であっても、そのコミュニティに集う人たちは、住んでいる国や文化の違いなど関係なく、「共通の話題」で盛り上がることができる。すでに、最初から「共感」をもって集まっている。目的意識も近い。
だから、そのエネルギーが「アクション」につながることも比較的容易だ。「異国感」を乗り越えるための時間や苦労は必要ない。エキゾチシズムの楽しみは減ってしまったかもしれないけれど、その代わりに得られるものはもっと大きい、と私は思うのだ。
江戸時代、他の藩に属する人は、「他国」の人であった。言葉も習慣も違い、「共感」ではなく「異国感」の対象であった。その人々が、「日本」という単位にまとまった後、今でも方言や習慣の違いはあるけれど、「同じ日本人」というアイデンティティをもつ、「共感」の対象となった。それが悪いことだという人はいないだろう。それだからといって、日本のほかの地方に旅行することを皆がやめてしまったわけでもない。海外だって、エキゾチシズムがなくなったから行かない、ということにはならないだろう。
今、海外から日本にやってくるアニメのファンというのは、日本に「フジヤマ・ゲイシャ」時代のようなエキゾチシズムなど求めていない。「アニメ」という横串の共感を求めて、やってきている。シリコンバレーにあこがれてやってくる日本のエンジニアは、「自分の能力やライフスタイル」に共感する人の多い場所を求めてやってくる。
私が「パラダイス鎖国」の中で書いた、「軽やかなグローバル化」とは、もうちょっとセオリー的にいえば、こういう言い方ができるかな、と思っている。
その意味で、まず自分でも、「ブログ界の共感」イベントである、「Blog Action Day」一大イベントに参加してみよう、と思っている。やって何かが起こるのか、新しい発見があるのか、わからないが、まずは人体実験してみる。こういうものは、少しでもたくさん参加者がある、ということ自体が面白いので、日本からも是非どんどん参加してみてほしい。
ということで、このシリーズ、続く予定です。