今更、グローバルとは(1) 「平安のイチロー」と「現代の長安」

瀬戸内寂聴さんがケータイ小説を匿名で書いていた、という話を聞き、もともとファンだったけれどますます好きになった。さすが、この方は突き抜けている。

それで、思い出したのがこの本。少し前に、たまたま書架にあったのを手にとって読んだらえらく面白かった一冊、じゃなくて上下2冊。

空海の風景〈上〉 (中公文庫)

空海の風景〈上〉 (中公文庫)

なんで思い出したかというのはほとんどこじつけだが、私は関東生まれで、鎌倉仏教には割りと親しみがあるけれど、「最澄空海」、「天台宗顕教)と真言宗密教)」、「比叡山高野山」の区別はほとんどついていなかった。この本を読んで、初めて一応の区別がついたのだが、空海と対比される「天台宗」のほうで私が知っている人が寂聴さんしかいないので、読んでいる間、私の頭の中では天台宗代表として常に寂聴さんが登場していた、というわけだ。

さて、仏教の区別だけでなく、いろいろな意味でこの本は面白い。その中で、「グローバル」とはどういうことか、というのを考えた。

空海というのは、「超人」だった。奈良時代から平安時代への変わり目という、まだまだ地方の庶民は竪穴式住居に住んでいたような時代の田舎豪族の出でありながら、自力で仏教を勉強し、中国語会話や漢文をマスターし、「人たらし」の才能を頼りに遣唐使船に無理やりもぐりこんだ。

彼が行き着いた先の長安の描写が、すごい。この頃は、唐の最盛期であり、長安は当時世界第一級のコスモポリタン・シティであった。インド、西域、ヨーロッパからも人が集まり、学術でも技術でも芸術でも、これらの人々が切磋琢磨し、唐の皇帝もこうした外国人を重用した。そんな中、遣唐使船が難破してボロボロになってたどり着いた田舎留学生である空海が、持ち前の中国語会話、書・漢文、人たらしといった才能をここでも遺憾なく発揮して、次第に名声を勝ち得ていく。

本国で身分が低かろうが、無名だろうが、才能さえ認められれば人々は彼を賞賛し、信頼する。そしてついに、密教の本山において、居並ぶほかの長年の弟子たちを飛び越えて、空海は師から「正当な後継者」の座を受け継ぐ。

2年後に日本に帰国した空海は、日本に密教を伝えたり、書から土木工事まで、ワケのわからないほどのいろいろな分野で功績を残す。しかし、司馬遼太郎は、彼はずっと長安への特別な思いを抱いていたのではないか、と想像する。彼が作った高野山というのは、長安の都を再現しようとしたのでは、という。

その理由は、長安における知的レベルの高い人々との交流と切磋琢磨のスリルであった。日本に戻って、天皇とも仲良しになり、歴史に大きな名を残すほどになっても、彼自身は、その点で満たされなかったのだろう、と作者は考えている。

現代の超人、野球のイチローが、アメリカにずっといるのと同じことなんだろう、と想像する。たとえ日本のほうがお金をたくさんもらえる状況であっても、コスモポリタンな場所でのレベルの高い切磋琢磨のスリルをいったん味わい、そして自分のことを評価されてしまったら、面白すぎてもう戻れないだろうと思う。それは、仕方がないことだ。

以前、ニューヨークにいた頃にピアノを習っていた先生は、日本人のジャズ・ミュージシャンだった。ニューヨークでは、競争が激しすぎて、私のような素人に教えたり、時々日本に出稼ぎに行かないと食っていけない、ニューヨークだけで食っていけるのは本当に一握りの人たちだけで、あとは皆同じような境遇だと言っていた。それでも、やはりニューヨークにいなければ、そういう人たちとつきあって切磋琢磨できないし、それがお金よりももっと魅力的だから、食えなくてもみんなニューヨークにいるのだ、と言っていた。

シリコンバレーギークたちが目を輝かせているのも同じことだ。ここはアメリカではない、インド人とロシア人と中国人ばかりだ、という揶揄は全く的が外れている。世界中からトップのギークが集まってきて、言葉がヘタでもすごいコードさえ書ければ尊敬されるし、プロのアントレプレナーたちがその辺でごろごろ酒を飲んで騒いだりしているからこそ、ここはすごいところなのだ。

アメリカのすべてが、グローバルだとは言わない。「パラダイス鎖国」の中で書いたように、基本的には日本以上にパラダイス鎖国の国だし、スマートフォンがアメリカ版ガラパゴス携帯だ、という話も書いた。実際、携帯の分野ではアメリカは「田舎感」があり、世界の中心は欧州という印象がある。だが、「野球」や「ジャズ」や「ギーク」の世界では、間違いなくアメリカ(のそれぞれ一部の都市)は「現代の長安」だと思う。ついに大爆発してしまったが、「金融」におけるニューヨークもそうだった。

今なら、空海イチローほどの超人でなくとも、それぞれの分野でトップの場所に身を置こうと思えばできるのは、本当にすばらしいことだ。競争は激しくてつらいけれど、その中でもまれることは、麻薬のような魅力のあることだ。

そして、そんな世界の高みでは、ほんのすぐ近くに、グローバル・レベルのものが広がっている。それはすなわち、その場にいなければできない「人のつながり」である。高みから広い世界に、人と人とが広くつながっているし、そういう人たちといつもつきあっていれば、才能や業績だけを見て評価できる目も肥える。人の評価は難しいからこそ、それができない場合には、国籍や学歴や家柄などといったことに頼らざるを得なくなる。

「平安のイチロー」である超人空海は、当時の日本としてはありえないほどのグローバルな人だったようだ。そして、「現代の長安」は、それぞれの分野でいろいろな場所にあるが、アメリカにはそれがたくさんあるのは、悔しいけれど事実なのだ。