「頭のない騎馬男」と「事業開発の職人」と「優秀な人をたくさん働かせること」

怪談の季節は日本では夏だが、アメリカでは10月終わりのハロウィーンなので、今はちょうど「怪談、おばけ話」のシーズンである。このシーズン向けの古典怪談として、「スリーピー・ホロウ」というのがある。ジョニー・デップ主演の映画にもなっていて、ジョニデ映画の中で私の好きなものの一つ。田舎のとある村に、夜な夜なマントを着た男が馬に乗って現れ、次々と村人を殺していくのだが、その男には「頭がない」というのである。ジョニデはその謎を解決するために出かける人の役なので、「頭のないジョニデでは意味ない」とのご心配は無用のこと。

さて、最近大手日本企業の話を聞いていると、この「headless horseman(頭のない騎馬男)」がふと思い浮かんでしまうことがよくある。いや、バカだという意味ではない。会社の機能の中で「頭脳」というか、「前頭葉」にあたる、将来の企業戦略を考えたり、具体的に新事業をはじめたりする、例えば「経営企画」とか「事業開発」といった機能が抜け落ちている、または弱くなっている、ということが気になっているのだ。

現在の事業はきちんとまわっている、つまりオペレーションや日々の営業といった、「手足」の部分はちゃんとしているのだが、それを全体として相互関連させて意味を持たせたり、業界の環境や趨勢を観察・分析して次に何をすべきかを考えたり、時代に合わなくなった事業をどうするか考えたり、そういった「頭」の部分はいったいどこにあるんだろう・・・と、よくわからない場合があるのだ。

伝統的に、日本の企業(とくにメーカー)の中では、こうした機能は「頭でっかち」「机上の空論」「無駄なオーバーヘッド」とみなされがちだったと思う。アメリカでMBAをとって帰国したらすぐに「垢を落として来い」と工場のラインに行かされたりするような、文革中国の「農村下放」みたいな話が昔からよくあった。だから、今に始まった話でもないとも思うのだが、長い「スリム化」の時代の間に、「とにかく今日の稼ぎを上げなければ」と事業開発の人員を削って営業にまわしたり、「展示会視察に出かける出張費は出せない」といって予算を削られたり、そういったことが積み重なって、どんどん「事業開発能力」が細ってしまっているんじゃないか、と思う。

だから、「セカンドライフがはやる」と誰かに言われればとびつき、「次はクラウド」といえば大騒ぎ、のように、表面的に流行にとびついて、トレンドをちょっとなめては、うまくいかずに「なんだ、やっぱりダメじゃないか」と捨て、気がついたら置いてきぼり、みたいなことになってしまう。あるいは、お役所が「これからはこれ」みたいに言ってくれないと自分では何もできない、という話になってしまう。

事業開発は、机の前に座って頭に浮かんだ空論を紙に書くのではない。常に業界の中を歩き回り、業界人とのつきあいの中で、全体的な市場や技術の動向を感じ取ったり、事業案を形にするための資料集めや周囲を説得するための資料作りをしたり、事業部門を興すための人や資金の手当てをしたり、といった、いわば「企業の中のアントレプレナー」としてのノウハウ、スキル、経験が必要になる。的確に趨勢をつかむためには、情報源を持つだけでなく、受信した情報を正しく理解し咀嚼し役立てるための「長年のカン」も必要だ。私もいわば、それを「外注」として受ける立場にあるわけだが、事業開発というのはこうした一種の「職人芸」でもある。

「モノづくり」を至上とし、「現場」を重視するのはいいのだが、そこから将来的な戦略を抽出するためには、こうしたスキルやカンを必要とするし、それはにわかにできるものでもなく、それなりの訓練が必要なのだ。モノづくりと同じように、「事業開発」の職人芸も、育てたり訓練したり継承するべきものだ。

日本の企業から、画期的なモノが出てこなくなったのは、不況や少子化や経済の成熟化のせいだけなんだろうか。企業自身が、将来のための事業開発にリソースを割くことをせず、「来年のために残すべきモミまでを食ってしまっている」ということなのではないのか。

こうした職人は、大人数必要なのではない。頭のいい人を少数でいいから、うまく使って最大限の知的成果を引き出す工夫がいる。

少し前に「金持ちをたくさん働かせる工夫」のことを書いたが、これもその流れの一つだ。企業の中で、優秀な人はたくさんいるのに、ひたすら「下放」してばかりいて、そういう人でなければできない「知的活動」にうまく使っていない、もったいない気がすることがあるのだ。必ずしも「金持ち」ではないけれど、同じ流れで「優秀な人を、引き摺り下ろしたり収奪したりするのではなく、なるべくたくさん働いてもらう」という発想が必要と思う。