エリック・クラプトンと音楽業界の未来

先日、ネットフリックスの「粘り(tenacity)」について書いたが、ミュージシャンでtenaciousといえばこの人、エリック・クラプトンだろう。

私がE.C.に入れあげたのは1990年代だが、その後私には子供が生まれて生活リズムが変わり、NYを離れ、MTVが没落し、車のラジオですら音楽を聞かないようになる中で、徐々に音楽を聴く習慣を失い、E.C.についてもすっかり忘れ去っていた。それが先日、夜なべ仕事の息抜きにYouTubeをサーフしていていたらE.C.の公式チャンネルを見つけて止まらなくなり、二枚組ベストアルバムと2008年に出た自伝をダウンロードし、今週出る予定(日本ではすでに先週出ている)の新アルバムまで予約するという大人買いに一気に走った。

今ころになって自伝を読んだ(というかオーディオブックで聞いた)のはそういう訳で、昔のファンとして彼の「ドラッグと酒と女」でズブズブの壮絶な人生はだいたい知っていたが、改めて読むと、ややこしい家庭に生まれ、あんだけ無茶しやがって、何度も死にかけ、アル中リハビリ施設に2回はいり、子供を失い、それでも半世紀にわたってあれだけのペースで曲を出し続けライブツアーをし、何度も復活したtenacityには本当に感心する。

1960年代からの音楽シーンといったものも並行して垣間見える。アメリカにあこがれた60年代、ドラッグに沈んでいった70年代、大チャリティ・コンサート・ブームとミュージック・ビデオ勃興期の波に乗った80年代、そしてMTVの「Unplugged」がウルトラ大ヒットした90年代。もうあれから20年近く経ったという時代の流れに驚く。

彼が放浪の果てにようやくたどり着いた安寧の時期である最近10年間は、音楽ビジネスにとっては大試練の時期で、それは現在も続いている。「自伝」のエピローグでは、それに対してE.C.は「音楽産業は過渡期にあるけれど、いつの時代も音楽は変わらないし、なくなることはない」と書き、また「インターネットは本当にありがたい。おかげで、ツアー中でも家に残してきた娘たちの顔が見られる」と無邪気に語る。

「レコード(CD)」と「ライブ」の売上を頂点にして、その下にミュージックビデオ・ラジオ・テレビなどのメディアによる「宣伝告知」とそれにまつわる広告事業、レコード(CD)の流通・販売、雑誌などの関連メディアや楽器販売、といった裾野を持っていた「音楽産業」は、頂点部分のマージンが急減して、全体のエコシステムの重さを支えきれずに崩壊した訳だが、アメリカの音楽業界ではすでに「再建」のツチ音が聞こえ始めている。一時の「RIAA対ユーザー」という違法コピーをめぐる不毛の戦いがやや沈静化し、iTunesWalmartを抑えて米国最大の「音楽小売」となり、そこを新たな頂点として、YouTubeとそれの「発展形」であるVevo(ミュージック・ビデオ専門サイト)が新たな「MTV」となり、それらの「合法動画」には電話会社や自動車などの「伝統的な大手広告主」が動画広告をつけ始めている。バナーやテキストに比べ、断然CPMの高い動画広告は、広告業界からも「一筋の光」として期待を集めているように見える。私は音楽業界の中のことはあまりよく知らず、これは「インフラ屋+ユーザー」という立場の、外から見た印象ではあるが。

こうした「米国音楽産業のtenacity」というのは、米国の音楽・メディア業界がもともと強くて大きく、ユーザーも多いから、そう簡単に壊れてはたまらない、と思う人が多いからという背景もあるだろう。その意味で言えば、次に「再建」されるべきは、世界第ニの音楽市場である「日本」のはずだ。

E.C.の自伝でも、日本が何度か登場する。故郷のイギリスと、世界の大市場であるアメリカが主要な舞台であるが、それ以外では、地理的に近い欧州の他の国や他の英語圏よりも日本が頻繁にライブの場所として登場するし、「日本は大好きだ、有働(ウドー音楽事務所)氏はサムライだ」などと言及している。感情としての好き嫌いはともかく、彼にとって市場として米国に次ぐ「儲けの源」であることは間違いない。

私は最近よく「日本とアメリカは似ている」と言っているのだが、ここでもそれがあてはまると思う。(再び、「外」から見た印象ではあるが。)IP(知的財産)を尊重する傾向が業界に強く、ユーザーが有料ダウンロード(日本でいえば「着メロフル」も含め)にお金を払う習慣がある。欧州ではメディア企業の力に対して「Pirate Bay」の政治的力が大きくなりすぎ、有料ダウンロードが健全に伸びておらず、だから「Spotify」で対抗せざるを得ない状況があり(というのは当たってますか?お詳しい方があればコメントお願いします)、一方「伸び盛り」の新興国はIP管理がしっちゃかめっちゃかである。

それぞれの状況に合わせた「音楽業界の再建」がこれから行われていくと思うのだが、米国ではその後どういう姿になるのだろうか、とちょっと考える。再びE.C.自伝の話にもどると、60年代ヤードバーズで売り出し中の頃、アメリカに初めてやってきたE.C.は、「アメリカでは音楽の多くの分野がそれぞれに懐が深く、ブルースならブルースでそれなりの商売になる。これに対しイギリスでは、全体で一人のスターしかいる場所がなく、アメリカでそこそこの名声を得て帰国したらその年のスターは他にいて、自分たちは見向きもされないのでガッカリした。」と述懐している。この感覚は、70年代に初めてアメリカにやってきて、FMラジオ局の数の多さに驚愕した私の「一般人」としての肌感覚と全く同じである。アメリカというのはもともとこうした「地方分権」的な性格が強い場所でもあり、「ネットと分散」の時代の音楽・メディア産業も、こうした方向で「数多いニッチがそれぞれ少しずつ大きくなり、それなりに商売として成立するぐらいになっていく」という方向での再建になるのでは、と私は思う。

メディア集中の時代が終わったから、E.C.のようなスーパースターはもう今後出現しないのでは、と思う人は多いだろう。でも、もしかしたら、こうした「数多いニッチが少しずつ太る」時代のあと、アメリカのことだから、買収統合の嵐が吹き荒れ、ネットとメディアの壮大な集中が起こり、それに乗って、世界中の人が同時に熱狂するようなスーパースターの出現する時代がまたやってくるかもしれない。

日本は、従来は上記の「イギリス・欧州」と同じ、「中央集権型」の構造をしていたし、今でもその構造を前提としたビジネスモデルが音楽業界のベースになっているんじゃないかと思う。ネット側の人間としては、それよりも徐々に「アメリカ型地方分権」構造にしていったほうが、今の日本のユーザーには合うような気がするのだが、もしかしたら「アメリカ型」と「欧州型」の中間的なものが出来上がるのかもしれない。いずれにしても、従来型に固執せず、(にわかに儲からなくても少しずつでも)「再建」に向かうという業界人の決意が、そのスピードを左右するのだと思う。音楽だけでなく、映画業界を見ていても同じことを思う。

E.C.に関していえば、この大御所でも、YouTube公式チャンネルと、自分のサイトでの「新アルバム全曲試聴」と、iTunesの「一曲だけ無料ダウンロード・サービス」と、FacebookTwitterと、PandoraやLast.fmと、そういったもののコンビネーションで新アルバムのプロモーションを行う「常識」を踏襲している。私がAmazon大人買いしたアルバムのマージンが、こうした種々の裾野に流れていく。

YouTubeに上がっているE.C.の最近のライブ映像では、見かけはすっかりジイサマながら、ギターは相変わらずの艶っぽさを保っており、やはり彼は「Forever Man」である。そして今や「人生で最も幸福な時期」にあると自称する彼は、音楽産業のtenacityを無邪気に信じているようだ。

ちなみに、この自伝、新発売シャープの「ガラパゴス」で読めるのかな?(笑)

クラプトン

クラプトン

Clapton: The Autobiography

Clapton: The Autobiography

(なお、「自伝」は日本語訳もあるが、アマゾンの評価では、翻訳が直訳調で読みにくいとの評価があるようなので、ここでは一応原典英語版を掲げておく)