世界は何色に見えているのだろう

こんなはてブ人気エントリーを見つけて、昔のことを思い出した。

目の見えない人に「青」という色を説明しなさい【働くモノニュース : 人生VIP職人ブログwww】

30年以上も昔の話になるが、私が初めて交換留学生としてアメリカに来たときのこと。田舎町だったのでアジア人は全くおらず、基本的には白人ばかり。ホストファミリーのお父さんはイタリア系だったので茶色の目だったが、お母さんはアイルランド系で、私と一番歳の近かったホストシスターも、緑と灰色が混ざった「アイリッシュの目」を受け継いでいた。

彼女の目をある日つくづく眺めながら、「この目で見たら、世界はどんな色に見えるんだろうか?」「私が緑色のサングラスをかけているような色に見えるんだろうか?」と不思議に思った記憶がある。

でも、考えてみれば、彼女の立場で考えれば、彼女に見えている世界が普通なのであって、私の目を見たら「黒いサングラスをかけているような色に見えるのかな?」と不思議に思うだろう。

目の色のついている部分はレンズではないので、関係ないと言えばそれまでだ。しかし、それだけでコトはすまない。

例えば、オレンジ色のレンズのスキー・ゴーグルをした瞬間は、雪の色はオレンジに見える。でも、しばらくすると、いつの間にか雪はやっぱり白く見えるようになる。あちこち、ちょっといつもと違う色に見えるのは確かだけど、かけた瞬間の「すべてオレンジ」の世界とは違う色になっている。目にはいった光の色は、そのまま見ているようでいて、実は脳で修正されている。

それに、「色」というのはあくまで「光」であって、「形」のような確実なものでなく、ひどく曖昧なものだ。日本ではいい色だと思っていつも着ていたダークグリーンのスーツを海外出張に持って行き、乾燥して光の強いカリフォルニアやベネズエラで着てみたら、えらくくすんで汚い色に見えた。それで、その地で合うようなはっきりした色の服を買ったら、今度は日本では派手すぎて着る気にならなかった。外界の光の具合によって、色は異なって見える。

だから例えば、私が「この青、きれいな色ね」といって指差した絵や花の色は、「そうねぇ」といって答える隣の友人が見ている色とは実は違うのかもしれない。「青」という名前は記号であって、友人が「青」という記号に照合している脳の中の色データベースは、私の脳のデータより薄いのか濃いのか緑に近いのか赤に近いのか、その人の脳の中をのぞけない限り、絶対にわからない。ましてや、違う場所や違う国や違う目を持った人たちは、同じ「青」といっても、違う色を実は思っているに違いない。

そう考えれば、色の組み合わせの趣味が人によって違うのもよくわかる。自分の趣味が理解されないと怒っても仕方ないというのがよくわかる。

これは色や視覚だけにとどまらない。味覚や嗅覚も同じ。人によって感覚も違うし、同じ人でも外界の環境によっても違うように感じられる。カリフォルニア産の赤ワインは、カリフォルニアの乾燥した気候で飲めばおいしいけれど、梅雨時の日本に持って行ったら匂いも味もどろんとした感じになってしまって、いまいち楽しめない。日本では香りで食べる松茸は、メキシコ産がこちらでも入手できるけれど、乾燥した当地では香りがそれほど強く感じられず、ただのキノコになってしまって、ありがたみが減ってしまう。

ホンダに勤めていた頃の話。これも大昔の話だから時効だろう。アメリカのディーラーから、「xxx(どのモデルだったか忘れた)の新車でいやな匂いがする」とクレームがあり、日本の工場だったか研究所だったかで原因究明しようとしたのだが、何をどうやってもいやな匂いなどしない。それで「別に、問題はないようだが?」と返答すると、アメリカ人の営業担当から「おまえらに、アメリカ人がどんな匂いが嫌いか、わからんだろーが!」と一喝された、というエピソードがあったのも、ついでに思い出した。

他人の感じ方は自分とは違う、というのは当たり前の話なのだが、これほどまでに根本的な感覚の部分から、人というのはそれぞれ違うものだ、ということを、つい忘れがちになる。特に、同じ日本人同士だと、つい同じように感じるはずだと思ってしまう。でも、アメリカ人と日本人ほどの違いでなくても、日本人同士でも他人ならば、個体が異なり環境が異なるのだから、感覚は少しずつ違っていると思ったほうが自然だ。「なぜ、こんな簡単なことがわからないのか!」と怒りそうになってしまったら、「この人の世界は、何色に見えているのだろうか」とちょっと考えてみることにしている。