梅田氏と「アテネの学堂」

梅田さんの発言記事がネットで盛り上がっている模様。

日本のWebは「残念」 梅田望夫さんに聞く(前編) (1/3) - ITmedia NEWS
Web、はてな、将棋への思い 梅田望夫さんに聞く(後編) (1/3) - ITmedia NEWS
404 Blog Not Found:梅田望夫は「残念」なただ一つの理由 (他はこのDan Kogaiの中にリンクがいっぱいあるので参照)

渡辺千賀といい、あーあ、言っちゃった、何か心境の変化でもあったのかな、などと思いつつ。

叩かれるのは覚悟の上で言ったんだろうけれど、少なくとも私の見える範囲で彼の発言を叩いている内容を見る限り、梅田さんのフラストレーションは当たってるなぁ・・・と思ってしまう。以下は私の解釈ではあるが。

梅田さんが「好き」であって、日本でもその登場を期待したネットの世界とは、「バーチャル・アテネの学堂」だったんじゃないかと思う。ネットの上でアニメが氾濫することも、ネットで大もうけするベンチャー企業も、あったっていい。ネットという無色透明なツールの上では清濁なんでもありだし、アテネの学堂の運営を長期的に支えるなんらかの金銭的なサポートも必要ではある。

しかし、本当のところは、そういった大きな仕組みの中で、「チープに手軽に、地理的制約もなく、自らの考えを公表したり議論したりすることができる」という特徴を使って、知的な議論が交わされ、シリコンバレーでよく使われる用語を使って大げさに言えば「世界をよりよくするため(to make the world a better place)の知識」が形成され、それが多くの人の手によって実行に移されていくことが「すごいこと」なんだと思う。ギリシア時代のアテネの学堂には、奴隷をいっぱい持っていて自分では働く必要もなく豊かな生活をしている暇人しか集まることができなかったけれど、ネットというツールを使えば、たとえうつし身は日本企業の泥沼や子育ての桎梏にあったとしても、心だけはアテネの学堂に参加することができる、ということが「すごいこと」なんだと思う。

この「アテネの学堂」の世界については、以前「空海の風景」についてのエントリーの中で言った「現代の長安」や、物議をかもした「日本語が亡びるとき」では「読まれるべき言葉の連鎖」だったかな?という言い方で表現されている、そういったものと共通の概念だ。

その世界が、これだけ「知的能力」の高い人がたくさんいながら、日本では絶望的に小さいということが、梅田さんが「残念」と言っていることなんじゃないかと思う。

繰り返すが、ネットは天下の公道で、そういう人たちだけのものじゃない。サブカルにもEコマースにもどんどん使われて大歓迎だけれど、この「アテネの学堂」の世界に限って言えば、「知的エリート」だけの世界である。すぐにメシのタネになるわけでもないのに、へとへとになるほどの頭脳エネルギーを絞って、知の形成過程に参加することに甘美な楽しみを見出せるような類の人だけの世界である。それが、全然ないわけじゃないだろうけど、あまりに小さく弱いと見える。

つまり、彼は日本(あるいは日本語世界)の知的エリートたちがふがいないことを攻撃している。同時に、知的エリートの世界に参加したいと潜在的に思っている人たちをつまらない嫉妬で引きずりおろそうとする「大衆の愚」に怒っている。

バーチャル・アテネの学堂が成立するためには、ネットというツールだけでは不十分で、背後に「にわかには役に立たないけれど、知識を共有して議論する過程はかけがえのないものである」という思想が必要で、そのためには参加者も、十分な数と質をもって必要だ。日本では、「図書館」や「博物館」の外側の仕組みだけ取り入れたけれど、その中にはいるべき「知の共有の大切さ、それを守るための重大な決意」が欠けている、という友人の言葉に賛同して、その「中味」を入れようとする彼女の活動に、私もささやかながら賛同しているワケで、昨日の「フェアユース」の話もその流れで考えていることである。「著作権」と対立する概念は、「サブカル・コンテンツをタダノリして見られる権利」ではなく、「知の共有と流通」という人類的な価値であって、それが「フェアユース」とか「パブリック・ドメイン」という形になっている。

梅田さんをバッシングするエントリーの中で、ここのところをきちんと「そうじゃない」といっている反論は、私は見ていない。やっぱり、これだけ著作を書いて、講演をしても、理解されていないのだろうか、と思う。同時に、自分もそのふがいない知的エリートの一人として、彼の批判を受け止めている。

こうやって書くと、「自分をエリートとか言って思い上がっている」というコメントがつきそうけだれど、それこそが「大衆の愚」だ。バーチャルな学堂では、自分が参加したいと思えば誰でも知的エリートになれるし、その自由な活動を大切なものとして守るには戦いも時には必要なのだ。だから、私は最近、そういうことを続けて書いているのだ。

<おまけ>「がくどう」と打つと、「学童」の変換しか出てこねー・・・そりゃ、ウチのガキは今日も学童行ってるよ・・・