「バカの定義」補足 - マクロではなく、ミクロのお話

下記エントリーに対し、貴重なコメントをたくさんいただき、ありがとうございます。いただいたご意見などをふまえ、少々補足したいと思います。・・・

別の視点から、「バカ」の定義 - Tech Mom from Silicon Valley

LD(学習障害)、ADHDアスペルガー症候群など、種々の「障碍」について、こういった「レッテル貼り」はあまり意味がない、というご意見はもっともだ。この問題と毎日毎日、生活の中で格闘している私の頭の中では、その次のステップへと進むことがあまりにも当然のことなので、敢えてそういう言い方をしていなかった。書き足りなかったことをお詫びする。

LDという名前をつけることは、「字が汚いけれど、LDだからいいんだ」と開き直ることではない。「あなたの言っていることが理解できないけれど、私はアスペだからいいんだ」と思考停止するならば、むしろ有害だろう。

しかし、「LDであり、またどこにどういう問題があるLDが原因で、字が書けないか」ということがはっきりわかれば、「ではその問題にどう対処すべきか」という次のステップがわかる。まずは、最初にその認識がないと、次に進めない。そのことが重要なのだ。

具体的に例を挙げよう。わが息子がなんらかの問題を抱えていることがわかったのは小学校2年のときだ。それまで、ひらがなを何十回練習しようが、英語のスペルを何十回練習しようが、全く覚えられず、見ながら書き写すことすらできず、無理やり書いても異常に崩れた字しか書けないことに私はイラだっていた。「あんたがまじめに覚えようとしないからだ」と何度どなりつけ、何度子供が泣き喚いて荒れまくったことか。何がいけないのか、どうすればいいのか、全くわからなかったのだ。

2年生のとき、読みの達成度テストを学校で行った。2年生で読めるべきレベルの文章を一人づつ音読させ、全体のうちいくつ単語を読み間違えたり読めなかったりしたか、読むのにどれだけ時間がかかったか、最後に内容について質問していくつわかったか、などいろいろな要因に分解して、それぞれの要因が学年全体のうち何パーセントのところにいるか、というのを細かくはじき出す。

そこで先生に言われたのが、「読めない単語の数が多く、notとかonのような小さな単語を読み飛ばすことも多く、読むのにものすごく時間がかかるので、途中でイヤになってしまう。しかし、読み終わりさえすれば、読解はほとんど完璧で、内容はちゃんとわかっている」ということであった。そして、「読み」に問題がある子供向けの専門家による訓練を学校でやることになった。「なんらかのLDである」ということを学校(正確に言えば学区)が認めて、予算がついて、特別サポートが始まったわけだ。

この「LD認定」は、終わりでなく始まりだった。ようやく、問題のありかが少しわかった私は、ではどうすればよいのかを探すべく、ディスレクシアについての本を読んだりウェブサイトをあさったり、学校の専門の先生やディスレクシアの子供をもつお母さん仲間に話を聞いたり、といった調査作業をはじめることができた。そして「視覚発達障害」ではないかと気づき、セラピーで改善できることがわかった。その後の経緯は、何度かここに書いているので、「視覚発達障害」カテゴリーの過去エントリーを参照してほしい。(ただし、「書く」ことはいまだに問題があり、これまた日々格闘中である。)

もしあのまま、「どなりつけと泣き喚きの日々」が永遠に続いたとしたら、先生もそんな彼を「怠け者」と呼び続けたら、いったいどうなっていただろう。世をすね、親や先生を恨み、攻撃するようになったとしても、全く不思議はない。*1

そういうわけで、私が身をもってある程度知っているのは、ディスレクシアと視覚発達障害だけなのだが、他のアスペやADHDにしても、たとえ完全に「治る」ことがなくても、それぞれの子供の状態に合わせて、効果的な指導の仕方や、どうしてもできない部分をカバーするための「ストラテジー」が種々研究されている。専門家は、子供の問題のありかや、進歩の具合などを見ながら、いろいろのセラピー、カリキュラム、ストラテジーを組み合わせて指導する。場合によっては、試験を受けるとき、問題を読み上げたテープを使ってもよいとしてくれるなどの「アジャストメント」をすることもありうる。

前回のエントリーで「眼鏡というものがこの世の存在していて、ありがたいと思った」というコメントをいただいたが、全くそのとおりで、検眼して近眼とわかれば、眼鏡をかければよい。完全に目が治るわけではないが、ツールを使えば、弱点をカバーしてくれる。種々の障碍の認定も、それへの対策も、それと同じことだ。「レッテル貼り」ではなく、「解決・改善への第一歩」なのだ。

そして、書道の価値や、きれいな字を書くためのトレーニング、あるいは斎藤孝さんの提唱されるような「音読」運動なども、それ自体を否定するわけでは全くない。「社会全体で読み・書きの基準を甘くしろ」とか、そういう話でもない。ただ、多くの親や指導者が、「こんなことは誰にでもできること」であり、それができない子は「サボっている」だけであり、いつまでたってもそれができないやつは「バカである」と思い込んでいるようであることが、問題だと思うだけだ。

一応言っておくと、これは必ずしも日本だけの話ではない。アメリカだって、ちゃんとしたスペルや文法で文章を書けない人を「教養がない」と見下す傾向はなきにしもあらず。字のきれいさ自体は、昔からタイプライターで書くので、日本ほど問題にならないと思うが、テストのときは手で書くし、先生によっては、伝統的なペンマンシップを重要であると考える人はいるのだ。

上記のように、ウチの子供の問題はそういうことだったが、別の子は別の問題を抱えており、その対策も、本当に一人一人違う。だから、マクロの塊の議論はしても仕方ない。親や先生といった、その子を日々見ている立場の人がミクロ的に考えるしか、解決の方法はない。

ただ、ディスレクシアの日本での事例が多く収録されている本(下記)を読んだ限り、(少なくともその本が書かれた時点では)ディスレクシアの存在そのものを知らないために、先生が「ディスレクシアではないか」という親の相談を頭ごなしに否定し、その子供を単なる「怠け者」と決め付ける例が多く見られたし、親である私自身だって、最初は子供のことを「単なる怠け者」と思っていた。「視覚発達障害」はますます知られていないし、まだ名前のついていない、別の発達障碍もあるだろう。だから、親や先生は、「単なる怠け者あるいはバカじゃないこともありうる。そうだとしたら、別の指導方法があるかもしれないので、考えてあげてほしい」し、例えば友人・上司・部下などがそうなら、問題のありかがわかれば、周囲の人間も、それなりに対策を立てることができる。

そういった、ミクロの話として聞いていただければ幸いである。

*1:いただいたコメントのリンクをたどっていたら、「醜形恐怖症」という病気があると知った。もしかして、秋葉原の大量殺人犯は、これだったかも。単なる可能性の話だが、もしそうだったとして、誰かが早くそれに気づいて、精神科に連れて行ってきちんと対処していたら、この事件は起きなかったかもしれないのだ。