「銃乱射事件」と「ケータイ小説」の間

佐々木俊尚さんの下記の記事を読んで、「ハタ」と思った。

ソーシャルメディアとしてのケータイ小説:佐々木俊尚 ジャーナリストの視点 - CNET Japan

閉塞感をもって地方に住む若い人たちが、「リストカット」や「援助交際」などのキーワードに「自分の現実とは違うけどそれに近いリアル」を感じていること。そして、「ケータイ小説」はこれらの人たちが双方向に共感をカタチにしていくソーシャルメディアであること。私は全く対象外年齢なのでケータイ小説はまだ読んだことがないし、日本の地方の感じというのが肌感覚としてはよくわからないけれど、この説はとても納得できる。

そういえば、話は飛ぶけれど、長崎の銃乱射事件。最初、「え?アメリカの話?じゃないの?」と思った。日本でもついに、と思うけれど、「銃」という点を除くと、そういえば「畠山鈴香」とか「砒素カレーライス」とか、世間の耳目を集める悲惨な事件が、けっこう地方で多いような気がする。

アメリカでも、今月の初め、ショッピングモールで乱射事件があったばかり。場所はネブラスカ州オマハ、犯人は19歳の男の子。今年前半のバージニア・テック大学、1999年にはコロラド州コロンバイン高校も衝撃だった。アメリカでは、この種の事件は田舎に多い。オマハはそこそこの規模の地方都市だけれど、ニューヨークやロサンゼルスとは違う。大学の場合でも、アメリカの大学は「大学町」として独立しているところが多く、広いキャンパスはきれいに見えるけれど、その中に住んでいると、実に娯楽がない。サンフランシスコまで車で1時間ほどのスタンフォード大学でさえ、そこまで出かけるのはけっこう大変だし、週末の娯楽といえば酒を飲むか映画を見るかぐらいしかなかった。

「地方の若者の閉塞感」というのが、日本では「失われた十年」により最近出現した現象なのかどうか、私にはよくわからない。でも、アメリカに関して言えば、いつも、地方というのはそうだった。高校時代に交換留学でホームステイした北の山の村では、昔栄えた林業は今はすたれて*1就職先などなく、遊ぶところなどもちろん皆無。マクドナルドさえ、車で30分以上はなれた隣町までいかないとなく、映画館すらなかったので、本当に酒を飲むしか楽しみがないようなところだった。だらか、アルコール中毒患者が多かった。1年しかいなかった私でさえ、気持ちが暗くなった。だから、そこにずっと住むしかない若い人が、閉塞感を感じるのは理解できる。

ソーシャルメディアとしての「ケータイ小説」が、そういった下地から出てきたのだとすると、アメリカの若者が素人ビデオを熱心に「YouTube」に投稿するのと共通の根っこを持っている。他に楽しみのない、田舎の大学にいる大学生が、こうしたUser Generated Contentsを支えているような気がする(ちゃんとした調査や統計は見たことないので、根拠はない)ので、日本でも同じようなことになっているのかも、と思う。

前にこんなエントリーを書いたけれど、「若者のクリエーション」とは、もしかしたらそれほど前向きのものでなく、閉塞感から必死にのがれようともがいている表れなのかもしれない、とも思う。でも、そういえば文学も、動機としては似たところがある。そういうもの、なのかもしれない。
豊かな時代の究極の楽しみは「クリエイトすること」、それがWeb2.0 - Tech Mom from Silicon Valley

*1:余談だが、「昔栄えた」のは日本のおかげだ、と言われた。それよりさらに10年前、日本でボウリングが大ブームになったとき、ボウリング・レーン用の木材の需要が爆発的に増え、この町の林業が栄えた、のだそうだ。どこまでホントか知らないが。