豊かな時代の教育とは(続き):異端の存在価値

その昔大学のとき、雑談がやたら面白いので有名な某教授の授業があった。その中で一つ、鮮明に覚えているのが「20世紀初頭に人類の体格が飛躍的に向上したのは、自転車の発明のためである」との話。自転車のおかげで生活圏が歩く距離の3倍とか4倍とかに広がり、結婚相手の対象が広がってより離れた遺伝子が混ざりあうようになったから、という説明だった。この伝でいくと、戦後自動車や鉄道や飛行機の発達とともに、さらに人類の体格は向上している、というのも説明できるのだが、なぜかその話はスルーだった。(笑)

いずれの時代にも、運送手段が向上すれば、食料を遠隔地からも運搬できるようになって栄養がよくなった、みたいな話もあるし、まーどこまで本当かわからないけれど、日本よりさらに体格がよいので有名な(?)アメリカでも、こんなに体格が良くなってきたのは割に最近のこと、というのは本当らしい。ニュージャージーに住んでいた頃、独立戦争時代にジョージ・ワシントンが築いた砦の遺跡が近くにあって、そこにその時代の住まいというのも再現されていたのだが、あまりに小さいのに驚いた。ジョージ・ワシントンは当時「大男」と言われたが、それでもせいぜい160cm台程度だったという説明を読んでぶったまげた記憶がある。どこまで正確かわからないが、まーなにしろ、アメリカでも体格がよくなったのは、ごく最近、自転車や自動車のおかげであるらしい。

こんな話を思い出したのは、前エントリーで書いた「雑種が強い」「異質のもの、多様なものが混ざりあうほど強くなる」ということを最近よく思うことの関連だ。

テクノロジーや文明の進歩というのは、従来なら少数の特権階級にしか許されなかったことを、より多くの人にだんだん広げていくという歴史である。政治の世界はもちろんのこと、経済活動でも、機械化や電子化による効率の向上により、従来はカヤの外だった階級や、女性や障害をもった人でも、より多くの活動に参加できるようになってきた。

マスコミがよく叩く「インターネットとケータイ」にしてもそうだ。そもそもがその弊害なるものは、親のパチンコやギャンブルで家庭が崩壊してひどい目にあっている子供に比べて、程度も数もたいしたことないと思っているのだが、「プラス」の面を見ると、私のような子供を持つ女性でもこうして仕事ができるのは、インターネットとケータイのおかげだと常々思って感謝している。学習障害のあるウチの息子のような子供も、コンピューターがあれば、スペルチェックもあるし、字を書く苦労が劇的に少なくて済む。コンピューターのない時代だったら(ましてや、昔の日本のように筆で字を書かなければいけなかったら)、肉体労働的な仕事にしか就けなかったかもしれないし、エネルギーをもてあましているから、やくざや渡世人の類になっていたかもしれない。でも、コンピューターのおかげで、おそらく高等教育も受けられるし、職業の選択肢も昔よりもはるかに広くなった。

医療の分野でも、女性が出産時に死ぬことの恐怖はほとんどなくなったし、子供は無事に育つのがアタリマエになった。子供をもってつくづく感じる。予防注射や抗生物質を使い、ケガをすればすぐ病院で手当てして、多少のことでは子供は死なないし普通に生活できることがアタリマエというのは、本当に幸せな時代だと思う。

こうした流れというのは、「弱者に恵みを与える」というネガティブな意味でとらえられがちだが、実は、雑種混交を強化して、その種を強くするというポジティブな意味があるのではないか、と最近思う。医療の発達により、昔よりも弱い個体も生き残ることになって、人類は弱くなったかというと、そんなことはない。より多種の人間が生き残り、混ざり合うことで、むしろ強くなっているんじゃないかと思う。

病気や障害があったり、体格が人と違っていたり、人づきあいがとても苦手だったり、ブスだったりブサイクだったり、ある特定のスキルが欠けていたり、そんな従来なら異端としてはじかれてしまうような立場の子供(あるいは人間)は、前エントリーのように異色の才能が埋もれているのかもしれないし、たとえそれがなかったとしても、全体のバランスの中で「異端」として存在すること自体に価値があるのではないか、と思う。

前々回のエントリーで書いた、今敏監督のインタビュー(ようやく記事を書き終わったので、まもなくアップされる予定です・・)の中で、もう一つ好きだった話がある。「パプリカ」には、超百貫デブでまるでガキのオタクだけど世紀の大天才である時田という人物が登場する。(「ガンダム」のアムロで有名な古谷徹さんが、その少年のような声を演じている。)その人物に関連して、監督がこう言っている。

一人一人がすべてバランスのいい人間になる必要はなくて、時田のように偉大な発明をする才能がある人間にもし社会性がないのであれば、社会性のある、別な能力を持った人間と組になることで、複数の人間でバランスのいい関係も生まれえるんだから、もし社会性を兼ね備えちゃったときに、オタク的な能力が減ってしまったら、結局はほかの多くの人にとって損失でもある、というのもありうると思うんです。・・(中略)それを削ってまで本当にバランスの良い人間になる必要はあるのでしょうかっていうのは、ずっと思っているんです。

出典: はせがわいずみ Hollywood Newswire

少なくとも、文明の発達した豊かな社会においては、異端はそれ自体、とても価値のあるものだと思う。「他の人と同じ」になりたがるのは日本の悪いところ、と言われるが、それはそうでなければ生きていけなかった時代の記憶が人々、特に教育や社会の仕組みを作るべき年長者の記憶に、まだ鮮明に残っているからだろうと思う。需給関係が売り手市場から買い手市場に変化すれば、マーケットの仕組みも市場の参加者の発想も、180度転換する。それと同じように、豊かな時代になれば、どんな人間が理想とされるかの考え方もガラリと変わる。

日本でも、「窮乏の時代」の記憶をひきずらない次の世代では、きっと「豊かな時代」に合った、人間に対する考え方や教育のやり方もちゃんとできてくると思う。ただ、ちょうど狭間に落ちてしまっている私の世代としては、とりあえずその面では一日の長のある、アメリカを参考にしてもいいんじゃないか、とも思って、前回のエントリーを書いた。アメリカだって、悪いところはいっぱいあるのだが、その点に関してはやや経験が長いので、いいところはいいとこどりすればいいじゃん、と思う。