学校最適の話、補足

昨日のエントリーに対するコメントを読ませていただくと、どうも私の書き方が悪かったようなので、少々付け加えておく。

ウチの子供は「すごいことができるのに評価されない」と(心では言いたいけれど^^;)ここで言うつもりではなかった。2年生になったら九九ができる、3年生になったら3年生の漢字ができる、といったことはごく普通のことですごいことでもなんでもなく、それでもきちんとできればテストで100点がもらえて、成績表にちゃんと残る。6年生でコンピューターを扱えるのが普通、というのはそのとおりだろうが、ではそれでテストで100点もらえて成績表に反映されるかというと、そうではない。

そして、「音楽」や「美術」や「家庭科」といったものでも、学校の中では「成績表」でちゃんと場が与えられているのに、「実社会では誰でもできるべき」コンピューターやネットの能力は何の場も与えられていない、というのはどうなのか。学校で評価されない能力というのは世の中にいっぱいあるのはわかっているが、これは現代の「読み書きそろばん」であり、また学校で実際に教えているのだから、もうちょっと場を与えてくれてもいいじゃないか。少なくとも、私がいた頃のMBAの一番最初の学期には、スプレッドシートの使い方を習う必須科目があって(全くのソフトの取り扱いだけではなく、数学理論もはいっていたが)、ちゃんと点数評価してクレジットをもらえたんだけど、小学校ではダメなのか。

そのことは、こちらのエントリーにあるように、子供たちに「学校とは、役にたたないことばかりやるところだ」という印象を与えているのではないか。「コンピューターやネット」の能力、そしてひいては「エンジニア的能力」が、あまり重要ではない、というシグナルを子供たちに送っているのではないか。他のことはダメだがコンピューターやネットなら上手に扱える、という、実際に社会にでたら、大いに世の中の役に立つ資質をもった(相当に数多くの)子供たちを、「学校嫌い」や「落ちこぼれ」にしてしまっていないか。

子供の「理系離れ」の問題は、そういうことの積み重ねの結果なのではないのか。

だって、子供にとっては起きている時間の大半をすごし、彼らを取り巻く社会のほとんどの部分をになっている「学校」の価値観なのである。その中の序列が表出する「シグナル」というのは、子供にとっては強烈だ。親がどんなに、「学校の勉強がすべてではない」と言ったところで、親と会っている時間よりも学校にいる時間のほうが長いのである。

そしてそのことは、「大人」たちが、コンピューターやネットの能力が「あまり重要ではない」と思っていることの反映ではないのか。子供をもつ親の世代の間でそういう認識を「再強化」して、社会の中で「固定化」する悪循環を引き起こしていないか。

それがひいては、「日本はソフトウェアやネット技術が遅れている」「ソフトウェア技術者の活躍の場がない、技術者が育たない」という「国益」の問題にまで影響していないか。アメリカでいえば、「エンジニアはインド人と中国人ばかりで、アメリカ人は理系離れ」という状況を現出させているのではないか。

そういうことを言いたかったのでありました。失礼しました。

ちなみに、わが家庭の中では、この問題にどう対処するかはすでに解決済みである。