湯川れい子とネットの新型「ブランド」バトル

日経新聞に掲載された湯川れい子さんの「立ち読みは犯罪」発言が炎上している様子だ。

http://homepage.mac.com/naoyuki_hashimoto/iblog/C478131471/E20061002165618/index.html

私も出典記事を読んだとき、いまどきこんなことを・・と目が点になった。まぁ、彼女の世代的にも立場的にも、仕方ないかな〜・・・と思いつつ、ため息が出た。

Googleなどによる本の中身検索、P2Pによる音楽ファイルシェアリング、YouTubeへのテレビ録画画像のアップロード・・などなど、コンテンツ供給者の立場から、これらの一連の「盗み」行為を糾弾する一連のできごとの一つと位置づけることができる。ネットによる閲覧・検索・アップロードが便利になるにつれ、こうした「盗み」(カッコつき、です)行為を問題視する供給側の声がそれに比例して大きくなっているようだ。

こうした行為を「盗み」と見る人もいれば、「お試し」と見る人もいる。この二つの境目はあいまいである。湯川れい子さんのエントリーへのブクマには、「本一冊まる読みする強者は困るけど」と但し書きしている方が多いが、さてどこまでがお試しとして許されるか、どこから先が盗み行為なのか、というのは線引きが難しい。えてして、供給側の人々は限りなく「盗み」のほうに近いところに線を引き、お金がないけど本が読みたい貧乏学生は限りなく「お試し」に近いところに線を引く。白か黒か、ではなく、どこがバランス点か、ということで、このせめぎあいは今に始まったことではないと思う。(このあたりに関しては、是非皆さん、レッシグの本を読んでください。)

Free Culture

Free Culture

レッシグ「Free Culture」の感想 - Tech Mom from Silicon Valley

上記で、私は「供給側」とあいまいに書いたが、実は前にも書いたように、供給側の一枚岩ではなく、ロングテール図でいう「恐竜の頭」側の人々と、「ミドル(背中?)からしっぽにかけて」の人々は、見方が違う。

「のまネコ」に見るWeb2.0時代の階級闘争 - Tech Mom from Silicon Valley

そして、ポイントは「著作権」という法律の問題というより、「ブランド」をめぐるマーケティングのバトルなのだと思う。

コンテンツというあいまいなものにお金を出すときには、食べ物や車や洋服以上に、「ブランド」の有無がモノを言う。車のような、あまりにスペックも見かけも性能も丸わかりのものでさえ、「トヨタ」「ホンダ」などというブランドの力は絶大である。ましてや、コンテンツを買うときには、ほとんどブランドにお金を出しているようなものだ。

本を例にとると、湯川れい子さんのような有名人が本を出せば、立ち読みしなくても買う人はたくさんいる。すでに個人名のブランドが確立されているので、本も「恐竜の頭」側になる可能性がきわめて高いので、出版社はお金をかけて宣伝もする。しかし、無名の私が本を出したとしても(今、ホントに書いているが・・)、小さな出版社だしショボい実用書だし、お金かけて宣伝もしないし、書店で私の名前や本の題名だけを見て買う人は、まぁせいぜいウチの親と奇特な友達ぐらいだろう。でも、100人が立ち読みしてくれて、たまたま書いてあることに興味をもったり、「わかりやすく説明してあるなー」と思ってくれたそのうちの1人か2人の人が買ってくれるかもしれない。

湯川さんにとっては、お試しの価値は極めて低く、むしろそれにより有べかりし利益が流出することのほうが問題だが、私にとっては、もともと有べかりし利益なんて限りなくゼロに近いのだから、お試しの価値は高い。

ネットで自分の音楽を配信しようとするインディ・バンドや、YouTubeで有名になるviral video(これって、いい日本語訳はないんでしょうか?単なる素人ビデオじゃなくて、ウィルスのようにじわじわと感染して広まる、という感じ・・ウィルス性動画??)をやっているコメディアン、なども、この比較の中では私の立場と同じである。

買ってきて、何度も食べたり毎日つかったりする普通の商品と違い、コンテンツの消費というのは、一回見たり聴いたりしてしまったらそれで終わりである。音楽や短いビデオ・クリップなどは何度も視聴できるが、映画や本のように、時間消費が大きく、かつ売ると価値の高いものは、そう何度も見たり読んだりしない。お試ししたら、それで終わってしまう可能性が高い。

だから、「ブランド」の力が絶大なのである。この監督の作品、この俳優が出ている作品なら見たい、と思って映画を見る。この作家の小説なら読みたいと思う。あるいは、どこそこの映画祭でナントカ賞をとったとか、芥川賞をとったとか、そういったブランドが、プロダクトそのものの中身がいいとか悪いとか、自分の好みかそうでないか以上に、売り上げを左右する。

ノーブランドのコンテンツ・クリエーターの作品を見る人は、それがどの程度のレベルのものか、お金を出す価値があるのかどうか、皆目見当がつかない。聞いたこともない作家の小説をいきなり買う、聞いたこともない映画をいきなり見る、聞いたこともないバンドのCDをいきなり買う、ということはきわめて起こりにくい。じゃぁ、聞いたこともない作家や監督や音楽家はどうするか・・・?

今、こうした「ノー・ブランド」の人々が、すでにエスタブリッシュされた方法でなく、ネットを通じて別の入り口からブランドを徐々に作り上げることができる新しい手法が、ネットの上で試行錯誤されつつある。それは、時に「大幅なお試し」という、ブランド側からすれば「盗み」行為と映るものもが、かなり大幅に含まれている。

エスタブリッシュされたブランドをもつコンテンツ供給者が、こうしたネットの潮流を敵視する気持ちもわからないではないが、こうした人々は、コンテンツ・クリエーターの中でもおそらくほんの2−3%とか、そういったごくわずかな数でしかない。多くのコンテンツ・クリエーターはノーブランドであり、ネットによる新しい「大幅なお試し」が、埋もれている才能を引き出す可能性のほうが、私にとっては楽しみに思える。

私自身とて、記事を書いてお金をもらう立場の人間なので、「なんでもかんでもコンテンツはタダじゃなきゃダメ」とは思わない。とはいってもロングテール側でノーブランドなので、「盗み」が0、「お試し」が10というスケールとすると、私ならたぶん「7」ぐらいのところに線を引くだろうな。