モノはソーシャルの乗り物、と考えると

年末、ようやく仕事が一段落したので、ひとりごと。世は相変わらず、ソーシャルが大流行なわけだが。

人が使う物理的なモノや、無形のモノには、見方によっていくつもの意味がある。「本来」みんなが思っている使い方や目的の他にも意味があって、実はそっちのほうが重要ということもある。

10月の日経ビジネスのコラムに、自動車のことを書いた。かつて、仲間や恋人が集まって時間を楽しむための文字通りの「乗り物」が自動車だったのに対し、今はそれがフェースブックになった、と表現した。それは、自動車だけのことではないと思う。

例えば分かりやすいのがゲーム。昔であれば、ブリッジや麻雀、今であればフェースブック上のゲームFarmvilleやモバゲーのゲームは、自分が楽しいというより、人と一緒に時間を楽しむためのツールである。一人で楽しむゲームももちろんあるけれど、ゲームというのは昔からそういう性格が強い。

もっと強引にその話を進めると、例えば文学や芸術も大衆芸能も、ある人々にとってはそれ自体、一生を賭ける価値があることだが、別の人々にとってはそれは(もちろん自分も楽しみながらでもあろうが)そういったことに価値を見出す人々と交わるためのツールである。あるいは、歴史や科学や古典など学校で学ぶ多くのことも、実際にその知識が生活や仕事に役立つというより、「知識階級」の一員としてきちんと会話を成立させ、共感するための材料でもある。欧米の上流階級が大学でリベラル・アーツを学ぶのは、まさにそういう意味だろう。そもそも「学歴」というものは、特定の学校の校風やその学校で教えていることを共有する人々のソーシャルの乗り物である。そういえば、貧しい家庭の男性がテニスに上達することで、上流階級の女性と親しくなってその階級にはいりこもうとする、ウッディ・アレンの映画があったな・・そうだ、「マッチポイント」。ここでは、テニスが乗り物になっている。

テレビの人気ドラマやみんなが見ているスポーツは、学校や職場で無難に会話をするための絶好のツールである。逆に、あまり人が知らないような趣味にはまるのは、その少数の同好の士との濃い交わりができるから面白い。

そういった無形のモノだけでなく、自動車のような物理的なモノもそうだ。子供のおもちゃなど、典型的な交流のツールだ。ブランドもののバッグを持つことは、本当にそれがモノとして好きな人もいるだろうが、それを持つことが「ステータス」であるから欲しいと思う人も多い。「ステータス」ということは、それを持っている人の「階級」の「ソーシャル」の輪につながりたいという共感のツールである。私が、お金もないのにiPadAndroidを買うのは、便利だし仕事上わかってないと、というのを自らへの口実として、こういうモノやそのアプリを使ったり作ったりしている人たちの話についていくため、という部分も正直いってある。その人達の世界が楽しいからだ。逆に、宝石はキレイだなとは思うけれど、それを買うために必死でお金を貯めようとか、そういうふうには思えない。「宝石」が代表する世界につながりたいとは思わない。

「ソーシャル」にもいろいろあって、濃さや広さや方向性が違っている。(このあたりの初歩的な分析は、以前KDDI R&A誌に書いたレポートを参照してほしい。)フェースブックにおける「ソーシャル」とツイッターにおける「ソーシャル」は色が違う。それぞれ、使い方を間違わないようにしないといけない。

フェースブックなどのSNSは、これまでよりはるかに手軽で広がりの大きいソーシャルの世界を創りだしたのは確かだが、ある意味では、あらゆるモノがソーシャルの乗り物としての価値「も」持っている、と考えたほうがいいんじゃないか、と思うわけだ。繰り返すが、本来の価値がまずあり、その「ソーシャルの乗り物」としての重みは、モノによっても人によっても違う。

そこを見落として、「独りよがり」なモノを作ってもうまくいかない、ということがあるんじゃないか。作っているほうは、そのモノ自体の価値を100%と信じて作るけれど、使うほうは実はソーシャルの乗り物としての意味のほうが70%ぐらいだったりするんじゃないか。最終的な価値は、「その色」の人とつながること、交流すること、共感すること、だったりするのではないか。特に、モノが豊富に存在する時代には、そのモノ自体を獲得・保有することはコモディティ化して価値が低くなり、その「上」に乗っている価値がもっと大事になったりするのではないか。ネットとコンピューターの世界で、ハードウェアからOS、OSからウェブ、ウェブからSNS、というふうに、歴史的に価値が上位層に向かって上がってきているのと同じように。

久しぶりに、たぬき(ラクーン)に襲われる恐怖と戦いながら、裏庭で風呂につかって星を眺めながら、こんなことをぼーっと考えていた。