妊娠も育児も家事も、フツーに仕事じゃんか

週末になったので、「発言小町」解禁して読んでいた。昨日のアクセストップは、「混んだ電車で席を譲ってもらうように毎日周囲に頼んでいる、妊娠中幼稚園児連れのワーキングマザー」の話。この方は、あまりひどく混む前に乗れるように、朝5時半に幼稚園児をたたき起こして電車に乗るが、6時台でも席はいっぱいなので、いつも優先席で元気そうに見える人に「席を代わってもらえないか」と頼んでいるが、なかなか席を譲ってもらえない。そして、「周囲からはどう見られているものなのでしょうか」というお題である。

レスの半分ぐらいは「がんばれ」「当然」という応援、残りの半分は「なんてずうずうしい」「時間をずらすとか始発まで戻るとか自分で努力しろ(すでに相当努力してると私は思うが)」「見かけは元気そうでも内臓疾患とかがあってしんどい人かもしれないじゃないか」「出た、妊婦様」といった、まぁよくネットでありがちなネガコメである。

「内臓疾患」のように「極端な例を持ち出して反論を封じる」やり方も、「妊婦様」といった切捨ても、ネガコメの常套手段なのでまぁいいとして、気になったのが、かなり多くの反論が、「若くても、サラリーマン(ウーマン)は疲れ果てているのだ、こっちの事情もあるんだ」→「妊娠は自分の事情でしょ、だから何?」→「自分で努力しろ、それでもダメなら自分で金だしてタクシーででも行け」という「自己責任論」になっていて、しかもその多くの発言者はどうやら「サラリーマン」ではなく、「女性」でしかもかなりの部分は「経験者」のようだ、ということだ。

こうした、「自分も苦労したから今度はお前が苦労する番だ」という、ありがちな下士官根性もイヤだなと思うけれど、それよりイヤなのが、この議論の無意識の前提として、「給料もらって働いているサラリーマンが偉くて優先されるべき」「仕事だったら公的なものだから仕方ないけど、妊娠も育児も個人的事情」という階級意識みたいなもののにおいがすること。

前に書いたように、仕事にもいろいろあって、同じ会社の中でも「花形部署」と「日陰の部署」があるし、例えばポルノとかギャンブルとかの「?」がつくような職業であっても、なんらかの意味と役割があってこの世の存在している。例えば「ゲーム業界」は、産業として立派に成立してたくさん人を雇って外貨も稼いでいるが、一部の人にとっては「ゲームのおかげでうちの子供は廃人になった」といって恨んでいる人もいるだろうし、自動車会社だろうが銀行だろうが、どの仕事でも産業でも、見方や立場によってその価値は違う。(明らかに犯罪という仕事は、「極端な例」として話がややこしくなるので、ここではとりあえず除外。フツーの合法的な仕事の話として聞いてほしい。)それぞれの仕事をしている人は、それなりの役割を持って社会を構成している。

そんな中で、「妊娠」して「育児」するのも、誰かがやらなきゃいけない「役割」であり、フツーに「仕事」である。直接給料が出ないので、会社で働くのとはビジネスモデルが違うけれど、社会を構成するいろいろな「役割」の一つだ。重要な役割か、立派な仕事か、そのあたりの価値観は人によって見方が違うので形容詞はつけないけれど、少なくとも会社で働くのと同じレベルで「フツー」に仕事だ。

それなのに、給料もらう仕事のほうが「公」であり上位にあり、妊娠・育児は「自分の事情」で「私」で下位にある、という無意識の前提が、多くの女性自身の中に刷り込まれているようだ。

家で、亭主に「仕事で疲れているんだ、家の細かい話は聞きたくない」とか言われ続けてきたという事情もあるだろう。

なぜ、「疲れたサラリーマン」については、「そんな仕事についてくれと誰も頼んでいない、自己責任」「残業したのは自分の都合でしょ、能力が足りないのは自分が悪い」とは言わず、妊婦だけが「自己責任」といわれちゃうのか。それも、女同士で。それは、違うと思うよ。

そして、人のことは言えない。私も、大学出てしばらく日本でOLしていたときに、通勤時間にたまに乗ってくる母子連れに、「こんな時間に来るなよ、常識はずれ、メーワク」と、心の中で思っていた。若いというのは残酷なことで、当時は人の事情など思いやることができなかったし、どこかに「会社で仕事している私はエライ、子供づれの専業主婦は負け組」という階級意識があったと思う。反省。

私にはできない、例えばごみ処理のような汚れ仕事や、消防士のような危険な仕事を、誰かがやってくれるから、社会は成り立っている。そういう方たちに、尊敬と感謝をしたい。同じように、私はもはや卒業してしまった、「妊娠」という危険で苦しい仕事を、今も誰かがやってくれるから、いろんな意味で世の中が回っている。ありがたいと思う。

もいちど言う。「妊娠」も、「育児」も、「家事」も、ビジネスモデルがちょっと違うだけで、フツーに仕事だ。その仕事の意義は、サラリーマンとなんら変わらない。