strikes back 3 多様性を確保するという「投資」

さて、このインタビューでも強調したことが、「多様性」の重要性である。本の中でも、結論となった部分である。なんで重要か、という話は本を読んでいただくこととして(笑)、多様性を確保することはそれなりにコストがかかるのだが、それはいわば将来に対する社会的な「投資」である、という考え方について述べたい。

このブログにたびたび書いているように、我が家の子供達は、二人ながら学習困難の問題を抱える。「単に怠けて勉強ができない」のではなく「どんなに頑張ってもできない部分があり、そのために勉強ができない」ということを強調するために、ここまではことさら「学習障害」という言い方をしてきたが、最近は上の子は種々のセラピーや対策のおかげでだいぶついていけるようになり、「障害」というのはちょっと違和感があるようになってきたので「困難」としておく。

これに加え、私の周囲にはなぜか、「学習困難」の子供をもつ家庭が多い。ディスレクシアADHD自閉症、手や足の機能障害などなど、多種多彩である。自分だけでなく、そういった多くの話を聞くにつけ、アメリカ(の中でも、おそらくは私が接しているある程度生活に余裕のある地域)でこういった問題のある子供に対する対策の厚さや、そもそも問題に対する基本姿勢が、「すごいな」と思う。

例えば、「書く」機能に障害があるケースでは、学校で特別に指導をしてくれるだけでなく、「専用コンピューター」を貸してくれる。コンピューターといっても、機能がきわめて限られる、電子タイプライターみたいなものだが、「彼は、手で字を書くと書けないだけであって、中味はわかっていて文章も作れるので、タイプすればきちんと書ける。だから、問題のある機能だけを補完する。」という考え方である。ディスレクシア(読字障害)では、テストの問題を読み上げたテープを使わせてくれる。もちろん、こうした「補助」を受けるためには、それなりの専門家の意見を聞き、学区の手続きを経て承認をもらわなければいけないが、それさえ乗り越えて必要が認められれば「ハンディ」をつけてくれる。

私の知っている限りの日本の学校だったら、「コンピューターで漢字変換するのはラクすぎて、勉強にならないからダメ」と言われるだろうし、読み上げテープは「それでは読む訓練を放棄してしまうからダメ」となるだろう。それは、別の言い方をすれば「あなたの勉強が足りないからだ、もっと頑張ればできるのにやらないから、自業自得だ」という意味が含まれる。「他の子と比べて不公平」という意味もありそうだ。でも、例えば「目が悪いからめがねをかけます」というのに、「それは小さいころからゲームばかりやっていたからだろう、自業自得だ、ゲームをやらずに頑張ってきた他の子と比べて不公平だからダメだ」と言われるだろうか?

コンピューターでスペルチェックや漢字変換をするのが、そんなに悪い、怠けたことなのだろうか?それを機械に任せて、もっと別のことに頭のエネルギーを使うほうがいい人だっているんじゃないだろうか?人並みにスペルや漢字が覚えられない子供が、人並みになるために一日何時間も超人的な努力をする(そして、おそらくそれでもできない)ことを強要されるとしたら、それは果たして本人のためにいいことなんだろうか?

「そんなことはない、本人の持っているほかのいい部分を生かすために、足りないところは、眼鏡をかけるが如く、ハンディをあげましょう」というのが我が家周辺の考え方。「そうかもしれない、でも特別な子供を受け入れる体制がなく、それをつくるには膨大な手間やコストがかかるから、できない」というのが、日本や多くのほかの国や地域での実情なのではないだろうか。

日本で「落ちこぼれ」といわれる子供達のうち、何割がいったい、こうした「本質的な学習困難」によるものなんだろう。ちゃんと診断してセラピーや対策をすれば、(なんらかの形で)乗り越えられる子供がいったいどのぐらいいるんだろうか、とふと考える。

そして、これは単に「落ちこぼれの救済」という消極的な意味だけでなく、「人と違う特性をもった人を、そのままで生かす」という「多様性の確保」という社会的な意味もある、と思う。

さらに、こうしたいわば「ぜいたく」なことができるのは、ここがアメリカという先進国であり、ある程度豊かな地域である、ということも言えるだろう。でも、「すべてに行き渡らないから、不公平だからやめる」ということではなく、「ぜいたくできる地域は率先してそういう社会的投資を担う」と考えたほうが前向きのように思う。

対策の対象になる子供が、全員アインシュタインになるわけではない。ただ、一人のアインシュタイン(大変人)を生み出すためには、その周りに何百・何千という予備軍(プチ変人)がいる。そして、あらゆる種類のプチ変人が社会から排除されずにうごめいていることで、「種の多様性」を確保することができる。

別の角度からみると、昨日の「勉強のできる子」のエントリーにも関連するのだが、落ちこぼれの逆、「ギフテッド」の子供達への対策、という話もある。このことも書こうかと思っていたら、他の方が言及されているので、下記を参照。これも、先進国だからこそできる「ぜいたく」であり、イコール「多様性のための社会的投資」だろう。(実際には、アメリカでもギフテッドの子供は、周囲の妬みや過剰な期待のために苦労することも多いようで、その意味ではギフテッド専門の学校というのも、そういう子たちのための「逃げ場」という意味もありそうだ。)

幻影随想 別館: 頭が良いってそんなに嫉ましいものなのかね?

別に、アメリカ政府がそう思ってやっているわけではないのだろうが、大きく考えると、豊かな先進国というのは、種の多様性を確保するための投資を担うという役廻りを持っているんじゃないか、とふと思う。貧しいところではそうはいかない。わずかな食べ物を分け合うために厳しいおきてが支配する「楢山節考」の世界になってしまう。

いまや、豊かな先進国になった日本でも、こうした「多様性への投資」をもっとしてもいいんじゃないか、と思う。まだまだ、日本の社会の仕組みの中枢にある上の世代では、「楢山節考」時代から続く思考回路が抜けないけれど、そろそろ、発想の転換をしてもいいと思う。「普通と違う子供」への対策は、「その子個人の救済」だけでなく、「社会全体の多様性確保のための投資」でもあり、それが次の世代で多くの人の役に立つ、今までにない新しい価値の創造につながるのではないか。少なくとも、悪戦苦闘する日々の中で、私はそういう枠組みで自分の悪戦苦闘をとらえている。

なお、このブログにときどきトラバをくださるkuboyumiさんが、障害児のためのボランティア活動を評価されて、日本の団体から表彰されたそうだ。おめでとうございます!