聴覚問題その後の経過と「書く」ことの苦しさ

我が家の次男坊T(日本式なら小学校1年生、アメリカの学校では2年生)の「ハイパーアキューシズ」(聴覚過敏症、とでも意訳できるかな)については、過去何度か、セラピーの様子とその後の経過を書いた。詳細は下記のカテゴリー参照。

[聴覚発達障害] - Tech Mom from Silicon Valley

セラピーを今年の2月に受けたので、終了後半年の検査を今週やってきた。

結果は、ハイパーアキューシズについては、ほぼ完治。3月17日のエントリーに示したのと同じ「オーディオグラム」のグラフは、きれいな横一線を示して過敏な部分は完全に消えている。セラピー終了後のグラフと同じで、その後「元に戻っていない」ことがわかり、一安心。また、雑音を混ぜた音の聞き分けについても、最初の検査よりはよくなっていることがわかった。つまり、「ことばを聞き分ける」という耳と脳のつながりについては、だいぶよくなっている。

一方、あまり改善が見られなかったのは、聞いた音と字を結びつける機能で、これは「右脳」と「左脳」のつながりに関する部分。このため、字を読むときに「フォニックス」といわれる、「アルファベットと音の結びつき」が彼は相変わらず苦手だし、自分の考えた内容を文章にし、頭の中では「音」として存在している文章を字に書き下すことができない。

このため、「授業中、部屋の隅にはりついて耳をふさいでしまう」「床にごろごろ寝てしまう」といった異常行動はなくなったが、「このテーマについて文を書きましょう」といった課題を出されると頭の中が真っ白になってしまい、脳がシャットダウンする傾向がまだ続いている。これが起こると、先生が何を言っても動かず、できないから自分でパニックに陥ってますますどうしていいかわからなくなる、という悪循環に陥る。本当なら、「ぼくは考えをまとめたり、文章にするのが苦手です。先生、手伝ってください。」といえばいいのだが、ただでさえ小さい子供で、しかもスピーチの問題のある子供にとって、自分の問題をこのようにきちんと分析して表現することはなかなかできない。だからますますフラストレーションがたまり、シャットダウンしたり暴れたりする。(このあたりは、自閉症とも共通した現象ではないかと思う。)「表現する」というのは、実は大変高度な作業なのだ。

対策としては、
1)音と文字の結びつきを訓練する「スピーチ・ランゲージ・セラピー」の専門家についてトレーニングする
2)音を文字でなく、絵にまず表現して、それを字に書き下すようにする

といったことが挙げられた。彼は学校で「IEP」の対象となっていて(詳細は過去のエントリー参照)、学校でスピーチ・セラピストの訓練をすでにやっており、また担任の先生に相談したところ、「絵」を使うことはすでにやっているということで、あとはこういった訓練を地道に続けていく、ということになる。

考えてみると、英語では「文字と音」の結びつきが複雑。hugは「ハグ」なのに、hugeと一個eがつくだけで「ヒュージ」という全然違う音になってしまう。しかも、「h」の文字の名称は「エイチ」であり、「h」の音とは全く関係ない。ある程度の規則性はあるけれど、その規則を全部からだで覚えるのは、実はけっこう大変だ。異なる漢字の読み方をひとつづつ覚えていくプロセスと似ているともいえる。(非英語圏欧州出身の友人は「英語を読むのって、日本語勉強するのと同じだね」という乱暴なことを言うが、一理ある)一方、日本語のひらがなは、文字の名前も音もすべて統一されている。「あ」は、文字の名称も音も「あ」だし、他の読み方はなく、1対1の関係にある。(「は」と「へ」という例外はあるが、ふたつしかない。)現時点では、Tは日本語ヘタなくせに、字を書くということに関しては、ひらがなのほうがはるかに「まし」である。漢字さえなければ、「なんて日本語って、わかりやすいの!」と思ってしまう。

さらに、文章を書くには、この「文字」を数多く、規則に従い、しかも意味がわかるように構成していく力が要求される。子供の今の立場にたって考えると、なんだか、はるかな遠い道のりに見える。自分はいわば文章を書くことでお金をもらっている立場にあるが、文章を書くということは、これほど大変なことなんだ・・・と改めて思う。考えてみれば、自分も小さい頃は作文が苦手(特に、「読書感想文」は超とかドとかがつくほどの大嫌い)だったけれど、やらざるを得ない環境の中で鼻から出るぐらいたくさん文章を書いているうちに、いつのまにか訓練されてここまで来られたわけだなー、と思う。今はこうして、文章を書くことが楽しみになったけれど、誰でもがこうではない・・・と改めて思う。