どっちつかずの子供になれ! --- 私が子供をアメリカで育てようと決意しつつある理由

以前、人生の先輩でありお世話になっている方から、「子供をそろそろ日本に連れて帰らないと、どっちつかずの子供になってしまう。それはやめたほうがいい。」と親身にご忠告をいただいたことがある。それで、ずいぶん迷った。その方のおっしゃっている意味はよくわかる。私自身、アメリカでどうしても外国人としての見えない壁をいつも意識していることもあり、この子達は、どうなっていくんだろう・・と不安にもなった。

しかし、その後、親の都合もさることながら、子供の様子を見ていて、やはりアメリカで育てるのがいい、と最近は納得しつつある。その大きな理由は、このブログにも何度か書いたように、上の子に軽い学習障害があり、そのための受け入れ体制やリハビリの手法が、アメリカの学校のほうが日本よりもずっと整っている、ということがある。でも、たとえそういった特殊事情がなかったとしても、「学習障害の子対策」に表れているような、社会全体の「基本的姿勢」が、日本よりもアメリカのほうが私は好きなのだ。社会全体の「基本的姿勢」というのは、今日のブログで梅田望夫さんが書かれていること、である。

直感を信じろ、自分を信じろ、好きを貫け、人を褒めろ、人の粗探ししてる暇があったら自分で何かやれ。 - My Life Between Silicon Valley and Japan

ウチの息子が3歳ぐらいの頃、日本に行ったときにラーメン屋さんで食事をした。息子はラーメンがもともと大好きなのだが、日本の本場のラーメンがおいしくて、3歳のくせにものすごくたくさん食べた。そして、店を出るとき、店の奥に向かって、「とってもおいしかったです!」と叫んだ。親はちょっと恥ずかしくて、なんとなくそそくさと店を出てきたが、考えてみたら、きっと店の人はとても喜んだだろうと思う。

アメリカでは、こういうのは普通のことだ。おいしいと思ったら、お店の人がたとえ初対面だったとしても堂々と褒める。通りすがりの人がかわいい犬を連れていたら「かわいいね」と堂々と言ってしまう。(まぁ、特にカリフォルニアでは、ということで。ニューヨークではそうでもなかった・・)アメリカ育ちの息子は、日本でもこれを英語直訳の日本語で、「いい犬だ」とか言ってしまうので、時々ヘンな顔をされる。

学校でも、自分の書いた作文に対して、クラスメートがコメントをつける、というようなことをやる。先生がそのコメントを見て、「こういう単に批判する言い方はよくない。このように建設的な言い方に直しなさい。」といったように「コメントに対しても」指導をする。

相手のよいところを見つける、見つけたら褒める、批判するにしても建設的に行う、ということを、小さい頃から彼らは体系的に叩き込まれる。私は、もちろん私が日本で受けた教育もいいところがあるのだけれど、やはりこのアメリカ的な楽天思想はぜひ取り入れるべきだ、と思っている。

たまたま、昨日・今日と、アメリカの現地校と日本語補習校と立て続けに成績表をもらい、先生と話をした。いずれの先生も、息子の問題に対して、「障害があるからダメ」とも、「一生懸命やらないから、いつまでもダメなんだ」ともおっしゃらない。いいところを見つけて褒めてくださるし、「書くのが苦手なら、タイプを早く覚えなさい」「スペルが苦手ならスペルチェッカーを使えばいい、それよりもあなたの素晴らしいアイディアを表現することに集中しなさい」「ゆっくりやればいい」と言ってくださる。本当に感謝している。

「よいところは褒めろ」「人の粗探しばかりするな」と言われても、日本で教育された私は、批判されたことに対しては「それも一理あるな」「やはりそのほうが正しいのかな」と、ついつい思ってしまう思考回路ができてしまっている。これはなかなか一朝一夕には治らない。また、日本では大人から何か「人と違う」ところを指摘されることに慣れている子供たち自身は、友達が「人と違う」とすぐに批判してしまう。「いじめ」問題は、まさに大人の悪いところをそっくり反映しているのだ。

だからこそ、私はこの、ヘンな日本語で犬を褒める、ハイブリッドのどっちつかずの子供を二人、育ててみようと思う。ほんの二人で日本が変わるワケはないが、補習校に行くとそういう子供が何百人もいるし、その何百人かがその周囲の数人に少しずつ影響を与えて、少しずつ何かが変わっていくかもしれない。かく言う私も、ラーメン屋での息子の発言に触発され、何かをいいと思ったら、堂々と相手を褒めようと気をつけている。

そして、梅田さんのエントリーを読んで賛同された方は、「若い人」だけでなく、どうか「子供たち」にもこの話を適用してほしいと思う。