パラダイス的新鎖国時代到来? - いいのかいけないのか?(その1)

また1ヶ月も更新をさぼっていたのは、毎年夏の日本での休暇のため。毎年夏に帰るごとに、「日本はどんどん住みやすくなっていくな・・」とぼんやり思っていたが、今年の夏は決定的に、「日本はもう住みやすくなりすぎて、日本だけで閉じた生活でいいと思うようになってしまった」、つまり誰からも強制されない、「パラダイス的新鎖国時代」になってしまったように感じたのだった。

私が中学生の頃にアメリカかぶれになったのは、その頃日本と比べてアメリカが圧倒的に素敵なところに見えたからだ。ティーンのこととて、音楽からはいったワケだが、当時のティーンのアイドル、「カーペンターズ」と「山口百恵」の間には、歴然とした格の差があった。私よりも先輩の世代と比べればまだ大したことはないが、それでも生活レベルの差があり、アメリカに行くことはとてもお金がかかる大変なことで、「憧れ」の対象であった。それが原動力になって、一生懸命英語を勉強して、高校でアメリカに交換留学に来た。その後ヨーロッパやアジアを放浪して歩いたのも、アメリカの原体験で培われた「外国」「異郷」に対する憧れが原動力だった。

でも、今はアメリカのアイドルも細分化・矮小化してしまい、Jポップと圧倒的な格差があるようには見えない。文化面だけでなく、携帯電話やブロードバンドなど、生活に密着した技術の部分では、もうアメリカより日本のほうが進んでいると見える。わが家の8歳の息子でさえ、駅にずらりと並んだハイテク自販機や自動改札を見て、「日本のほうが技術が進んでる」を持論としている。日本の家は相変わらず狭いけれど、一歩外に出ればものすごい量の商品の並ぶ店やおいしいレストランがいくらでもあり、公共サービスも充実してきたし、一時ほどモノの値段も高くない。

まだまだ海外旅行は好きなようだが、これもぐんと安価・手軽になり、一昔前と比べ、一般の日本人が外国生活に憧れる理由は格段に減ってしまったのである。となれば、わざわざ苦労して英語を勉強して、犯罪やテロや戦争のある外国に行くのは、酔狂な話である。

そして、所得が増加して国内市場が大きくなり、一方で中国での生産やデジタル経済による種々の価格破壊によってコストは安くなり、商品やサービスを売る企業も、日本国内だけで十分採算がとれるようになった。私がビジネススクールにいた頃、効率的な生産規模を実現するためにはグローバル化は不可欠、といったセオリーが信じられていたが、今やそんな必要もなくなってしまったようだ。この頃よく漫画にもなった、途上国の果てまで日本製品を売り歩く「モーレツ・ジャパニーズ・ビジネスマン」の姿は、最近とんと見なくなってしまった。

そして、90年代のネットバブル・シリコンバレー全盛時代には、かろうじて「ベンチャー」「ハイテク」のキーワードでアメリカは魅力を維持していたが、それすらもうなくなってしまった。

一時期、技術の進展による過度なグローバル化(=アメリカの影響力増大)を懸念して、ヨーロッパで激しい抵抗が起きたことがあったが、技術の進展と社会の豊かさの増大がかえって自国閉鎖型エコノミーを現出させているかのようだ。

日本が住みやすい社会になってきたというのは、とてもいいことである。アメリカも最近、別の意味(政治的)で孤立を深めているが、その前から、今の日本の「パラダイス的鎖国」に近い現象が見られた。アメリカ人が圧倒的に外国語が下手なこと、世界でただ一ヵ国、いまだに「ポンド・ヤード制」を使っていることなど、いろいろその証左がある。つまり別の言い方をすれば、日本が「アメリカ化」しているのかもしれない。

しかし、ホントにそれはいいことなのだろうか?日本という国が世界の中で生きていくにはどうあるべきか、日本にとってはどういうグローバル化がよいのか、ということを、多分気づかないうちに高校の頃からずっと追いかけてきた私にとって、ある意味では「アイデンティティ・クライシス」ですらある。

いろいろ考えるところがあるので、続きはまた別の日に。