ノマドという言霊ハイプを煽る

相変わらず、ネット界隈では「ノマド」ブームを揶揄する動きが続いている。

安藤美冬とかいう新たな勝間和代の襲来: やまもといちろうBLOG(ブログ)

だけど、私はいっそ「ノマド」も、こういった、なんとはなしの現象に名称を付与することで流行を作り出す「言霊ハイプ」にしちゃってもいいのでは、と思っている。

世の中には、メディアのハイプとか◯通的な仕組みのフィルターを通じてしか、新しい現象を理解できない人々が実に多く(どこにでもいるが日本国にはとても多い)、時にそういう人達のフィルターを通すために犠牲を覚悟で「言霊ハイプ」の力を借りるのもアリと思う。「ガラパゴス*1とか「イクメン」なんかも言霊ハイプからお偉い方々の脳にも投影されて、それなりに世の中の気分に一定の影響を与えたと思う。

ノマドに関して言霊ハイプが必要と思う理由は、以前にもこのブログに書いた、「ノマド(あるいはフリーランス)」を雇うクライアント企業側の人々に、「あー、いまどきはそういうのもアリかもね」という気分を醸成してもらいたいからだ。特に、プロフェッショナルな分野でのフリーランス契約が広がるほうが、いろいろと世の中が良くなるのでは、と思うのだ。

ノマドというコインの裏側、「クライアントの存在」 - Tech Mom from Silicon Valley

ノマドという用語が合っているかどうかはわからないが、「フリーランスのプロ」という働き方は子育て中の女性には何かと利点が多い。女性本人がそうなってもいいし、女性が正規雇用でパートナーである男性がそうであるのもよい。どちらかがフリーランスだと、いろいろな意味で融通がきき、物事がいろいろとやりやすくなる。

たまたま、今日「小町」を読んでいて、転勤族の男性が共働き指向の女性と出会いたいのだが無理だろうか、という相談があり、これに答えている女性の大半が「ムリムリ」「そんなに何度も転職できない」と言っているのを見て、その昔会社に勤めていた頃のことを思い出した。同期の総合職女性が辞める決断をしなければならなかったのは、結婚でも出産でもなく、「パートナーの転勤」のとき、というのが一番多かった。一期下の世代では、女性の海外駐在も可能になったが、実際にそれができたのは、独身を貫いた人と、パートナーが「芸術家」だった人だけだ。

働く女性の最大の敵は、世上言われるような「保育園不足」よりも、「転勤」ではないか、と改めて思う。

その昔盛んだった日本型終身雇用の中で、大企業では転勤(海外含む)がもれなくついてきて、その対策として「専業主婦」という仕組みが必要で、そのために年金とか保険とか手当とか控除とかいろいろくっついていて、企業のほうでも高卒や短大卒の「専業主婦」候補を、男性社員のために用意してあげていた。そもそも、そういったインフラで長期雇用を支えているから成り立っていた終身雇用が崩壊したのに、「転勤」だけが残ったらうまくいかない。ますます、若い人が結婚できなくなる。女性が全国・海外転勤のある仕事に就く決断がなかなかできない。

日本型終身雇用は、鉱工業が主力産業で、設備投資の足が長く、企業の寿命も長かった「社会主義が可能だった時代」には合っていたけれど、企業というより産業自身のライフサイクルが短くなる「サービス業時代」にはもう無理なのは明らか。もう昔日には戻れないので、仕組みとしては「フレキシブルな雇用」、個人の戦略としては「つぶしのきくプロ」を目指すのが良いと思っている。やり方はいろいろあるが、「フリーランスの拡大」というのはその一つのやり方。

上記の相談でも、前向きの答というのは、「自分は翻訳業だから世界のどこでもできる、そういう人を探せばよい」といったものだ。看護師や薬剤師などの資格業も、広い意味では動きまわることが可能な職業。一方、我が家の子供の友人家庭では、お母さんが公務員、お父さんはフリーのSEで、プレイデートの送り迎えにはだいたいお父さんが来る、というケースもあり、そういうパターンもアリだ。唯一のブレッドウィナーがフリーランスだと不安定だが、共働きでどちらかが定職ならばいろいろなヘッジができる。

でも、地味な私などがこんなことをブログに書いたって、人々のハイプ・フィルターを通すことはできない。もともと、私のブログを読んでくださる人は、こういう考え方に賛成なタイプの方が多いだろうが、全くこういう考えに馴染みのない人にも浸透しないと、フリーランスがどんどん雇われる世の中にはならない。

ならば、「ノマド」でもなんでもいいので、とりあえず「言霊ハイプ」に乗っかって、もちっと見栄えのよい女性とかに煽っていただくのもいいんじゃない、と思う次第。はやりに流され、ノリでノマドになった若者が火だるまになって焼け落ちるケースもあるかもしれないが、少々の犠牲は203高地を占領するためには仕方ない、というか、それで死ぬわけでもないので、灰の中から再び立ち上がるのも人生経験だと思って頑張ってくれたまえ。

<追記4/19>
なまじ職場での男女同権が進んだアメリカやイギリスでは、別の意味でやはり「転勤が障害」になっている、というお話をTwitterでいただきました。これも実感なのでご参考に。

MBA女性の10年後 | 世界級ライフスタイルのつくり方

*1:注:一応言明しておきますが、「ガラパゴス」は私の造語ではありません。私は「パラダイス鎖国」。韻を踏んでいるせいかよく間違えられます・・

ノマドというコインの裏側、「クライアントの存在」

なんか、ノマドという言葉が流行ってるみたい。私も、パソコン一つで仕事してる自営業者だからノマドといえるんじゃないかと思う。

http://blogos.com/article/34698/?axis=p:0
愛と幻想のノマド論 食いっぱぐれない生き方のぶっちゃけ話 – アゴラ

ノマドはやめとけとか言っているが、私は仕事を続けようとしたらこれしかやり方がなかったから仕方なくやっている。2000年を目前にして、史上空前のバブルだったシリコンバレーですら、就職しようとして面接受けても、幼児をかかえて身動きも取れない国際事業担当者なんてどの会社も雇ってくれなかった。

この手の「論」でいつも感じるのだが、ノマドがいいとか悪いとか、そんなの人によるのだし、その状況の中で自分はどうする、という話しかないのに、一般的に全体の話をしてもあまり意味ないんじゃないかと思う。特に、女性であるとか出産したとか子育てだとか、あるいは障害があるとか病気だとか、そういう制約的な状況を抱えている人は、与えられた条件の中で最大限やるにはどうしたらいいか、といつも考えている。私の場合でいえば、ノマド生活の中で最大限に自分のやりたい仕事をするにはどうするか、ノマドのいいところをどう活かすか、ということだけしか考えてない。ノマドがいいか悪いか、考えるだけ無駄なので考えたこともない。

ただ、一つだけ「全体の話」として言えると思うことがある。それは「ノマドというコインの裏側」、つまり「ノマドである私を雇ってくれるクライアント」のことだ。私の身の回り、ここシリコンバレーでは、女性で私と同じように自営でコンサルやコントラクターとして仕事をしている人が多い。私と全く同じ条件を抱えているからだ。もちろん、男性でも多い。そして、それが可能なのは、いろいろな分野において、自営業者を雇うクライアントがたくさん存在するからだ。

人事や広報、ウェブやプロダクトのデザイン、マーケティング、調査、特定の国や産業に強いコンサルタントなど、各種の「専門家」がそれぞれのやり方で仕事をしている。クライアントである企業のほうも、事業立ち上げ・起業のフェーズで先のことを約束できないときや、特定の短期的ニーズが発生したときに、プロジェクト・ベースでやってくれる専門家の存在を活用するニーズがある。

日本では、一般的に言ってこういうニーズが顕在化しづらいと思う。資金的に余裕のある大企業では、多かれ少なかれ「常態的に余分な人を抱えている」のが終身雇用という戦後的仕組みの残滓なので、「まずその人達を食わせる」ことが優先したら、こういった短期の仕事を外部の専門家に切り出してやってもらうというニーズが生まれにくい。幸いにして、私の場合は「アメリカに住んでいる」という、フィジカルなわかりやすいアドバンテージがあるので、社内の他の人とは違う仕事ができるとわかってもらいやすかったのがラッキーだった。

ただ、最近では日本企業も、雇用を抱え込まないように苦労しているようだし、だから「派遣」のニーズも高いわけで。この先、アメリカのように、もっとプロフェッショナル的な分野でも、コントラクターのニーズが増えるのでは、そうすると子育て中の女性でももっと仕事がやりやすくなるのでは、などと少々期待をしている。

幸いに、私の専門分野である「通信・IT」においては、女性プロフェッショナルに対する抵抗感は少ない。それでも、私が今の仕事を立ち上げた最初の頃、まだ本も出してない、ブログも書いていない、マッキンゼーなどの著名コンサルティング会社の経験もない、ただの無名な泡沫コンサルタントだった私に、継続的に仕事を出し、育ててくださったクライアントには、いつも感謝している。

就職難の昨今、日本では若い方でも私と同様に「他の選択肢がない」ということでノマドライフに突入する人も今後多くなるだろう。そんな中、ノマドになった人には、とにかく「誰の許可を得なくても費用は自己責任で使える」というメリットを最大限に活用して、自分の勉強にきちんと継続的に投資することをお薦めする。どんなにお金が苦しくても、決してここをけちってはいけない。勉強していれば、時代の流れも読めて、次にどんな知識やスキルが必要か、敏感にわかるだろう。

それと同時に、日本企業クライアント側でも、多くの分野で外部専門家を雇うように、柔軟に考えてほしいと思う。仕組みがまだまだ整っていない部分は確かにある。こういう場合には結局「口コミ」や「紹介」が一番合ったやり方なのだが、アメリカならば「LinkedIn」や、種々の人的ネットワークで適切な人を探す仕組みがいろいろあるのに対し、日本ではまだそれが足りない。でも、ニーズがあれば仕組みはできていく。四角四面な「雇用」でなく、ノマドを使いこなすほうが、いろいろとメリットがある世の中になっていると思うので。

<追記>
Twitterのコメントで気づいたのですが、上記に書いた私を雇ってくださっているクライアントは日本企業が多いです。念の為、付け加えておきます。

世界をよくするために

スティーブ・ジョブズの話は、もうたっくさんの人が書いているので細かいことは省くが、今日はSJ本人がナレーションを行なった「Think Different」コマーシャルの未公開バージョンが話題になっている。

まさに、これがSJ自身の言葉なんだろう。彼は、多くのシリコンバレーのビジョナリーと同じように、「世界をよくするために」という信念をベースにして、技術をつくり、商売としていた。儲けたお金をチャリティに寄付するという意味では、ビル・ゲイツに負けてるとよく言われていたが、そうではなく、商売そのものを通じて、「世界をよくする」ことに努力してきた。

これが、ジョブスが稀代の偉人として尊敬される所以であり、またシリコンバレー文化の象徴である所以だ。

シリコンバレーは、こんな「理想主義」と、一攫千金を狙う「ゴールドラッシュ文化」がアウフヘーベンした土地なのだ。シリコンバレーで尊敬される会社は、なんらかの形で「世界をよくするために」商売をしている。そうでなければ、成功できない。

理念がなければ成功できない - 「フェースブック 若き天才の野望」 - Tech Mom from Silicon Valley

ちっぽけな私一人でも、ほんの少しなら世界を変えることができるかもしれない。To make the world a better place。そう思わないとな。

そんなことを、この動画を見てまた思い出している。

凡人が、夢を諦めず絵や音楽を仕事にする方法

確かに、画家やアニメーターやミュージシャンになって、まともにメシを食っていくのは凡人にできることではない。もともとの才能があり、なおかつ異常なほどの集中を保ってそればかりをやって習熟するということができる人でなければ、こういった「需要(仕事のポジション)が少なく供給(なりたい人)の多い」仕事で勝ち抜いていくことができない。

夢を諦めさせる

でも、まぁそんなに悲観しなくてもよい。凡人でも、ある程度それを仕事にする方法はあるだろうと思う。それは、「コンピューターでそれをできるようにする」ことだ。

前にも書いたが、ウチの子供の通う、シリコンバレーのとある平凡なレベルの中学には、「アニメーション」の授業がある。選択科目であるが、人気最高で希望してもなかなかはいれないらしい。

憂うべきは「カリフォルニアの教育」か「日本のアニメ産業」か - Tech Mom from Silicon Valley

今年も9月は学年の初めなので、各授業の先生と親が顔合わせをする「Back to School Night」という日があり、先週、アニメーションの先生とも会ってきた。この先生は、なんと15年前からこの中学でアニメを教えているそうで、「美術」と「コンピューター」の両方で教師の資格を持っているというクロスオーバーな人である。この日は全科目の先生と会ったのだが、この先生ほど幸せそうな先生は他にいなかった。

アニメの授業といっても、基本的にはすべてコンピューターでアニメを作成する。(一応、「歴史を学ぶ」意味で、セル画を描く実習もあるようだが。)昨年、ウチの息子の「ホームルーム」がアニメ、と聞いたときは驚いたが、昨年度ずっと見ていると、基礎的なことからけっこうしっかりと教えてくれるし、「コンピューターでこんなことができる」といった知識や、プログラミングのコンセプトも少々教えてもらえるし、学年末の共同プロジェクトはYouTubeにアップされているが立派なものである。大したものだと感心している。「コンピューター」の授業、というと男の子ばかりになりそうだが、「アニメ」には絵が大好きな女の子もたくさんいて、ちょうどバランスが取れている。

そんな絵の上手な女の子の作品は、集まった親御さんたちが一様に驚きの声を上げるほどの出来栄えなのだが、先生いわく「でも、そのすぐ隣で、まだ経験が浅くてそれほど上手にできない子が作業していても、その子はその子で、自分が今までやったこともないことが出来ているので、目を輝かせて夢中でやっていて、とっても幸せなのだ」という。そして、「今年は、選択音楽クラスの子供たちのバンド演奏をウチのクラスのアニメと組み合わせて、カリフォルニア州コンペティションに出して、きっと賞をとるぞ!」とウキウキしている。先生が、である。(アニメに音楽は欠かせないので、音楽編集ソフトも習う。)学校の授業で、これほど全員が自然に「目を輝かせる」授業は他になく、そりゃぁ教えている先生も楽しくてしょうがないだろう。

シリコンバレーには、CGアニメのピクサー、映画特殊効果のILM、ゲームのEAなど、大手のグラフィック系企業が地元にたくさんあり、この授業出身でアニメーターやCG屋さんになった人もいるようだが、それよりも「これをやっておけば、つぶしがきく」という。普通の企業の仕事でも、プレゼンテーションに動画を入れたり、企業のウェブサイトを作ったり、実はけっこう芸の使い道はあるし、そもそも各種のコンピューター・ソフトを扱うスキルが身につく。

音楽についても、例えば子供の友人のお父さんで「ミュージシャン」がいるが、バンド演奏は週末、半分趣味でやっているだけ。本職は、自宅の地下室にある、あらゆる楽器と録音装置とコンピューターを駆使して、携帯の着メロや、企業のウェブ動画用などの「コンピューター音楽」を作る仕事である。

「コンピューターを扱う基礎スキル」は、できて当たり前だ。エクセルやワードや、メールなどの使い方など、掛け算九九ができるほどの程度のものだ。しかし、「高度な掛け算」はまだまだできる人は多くない。今から20年後ほどになれば、CG作成など誰でもできることになっているかもしれないが、今の中学生や高校生が就職する頃程度なら、まだまだ「芸」として通用すると思う。そして、例え絵や音楽を直接使えなくても、そこで覚えた「ソフト使いこなし術」は、いろいろな場面で応用できるし、その後より本格的な「プログラミング」へと進むための入り口にもなる。

何であれ、ただ「見る、聞く、消費する」だけでなく、「創る」ことができるヤツはすごいと思う。それを活かさない手はない。

そもそも、「夢を諦めて普通の企業に就職」って、いまどきそんなに簡単なことではない。また、企業に入っても、企業のほうであなたの適性を考えて訓練してスキルをつけさせてくれる時代ではない。いつクビになるか、いつ会社がつぶれるか、わかったもんじゃなく、自分で工夫して一芸を身につけなければ、自分で身の振り方を決められなくなってしまう。

凡人でも、夢は「諦める」のではなく、「つぶしかた」を工夫して考えればいいと思う。

いまどき、普通の人なら、英語が書ければよろしい

私が「英語習得」に関して興味を持つのは、「日本人としての外国語」という意味だけでなく、このエントリーで書いたように、わが子が「国語としての英語」にいろいろ苦労していることも作用している。両方の面から、「コトバを習得する」という普遍的な作業に関して、人の脳の発達や社会においてのコトバの使われ方、といったことをつい考察してしまう。

楽天の「英語公用語化」に端を発した「英語習得」議論が、引き続きTwitterなどで垣間見られる。日本企業の「英語公用語化」については、その企業の戦略方向性や企業体質によるので、そうしたいところはすればいいじゃん、というだけの話で、楽天に関して言えば、相変わらず体育会系のノリで三木谷さんらしいな、と思っている。(体育会テニス部出身の方なら、「三面振り回し〜!」の発想だな、と言えばおわかりいただけるだろうか・・・)「英語できないやつは辞めてよろし」というのが批判されて、「ノルマ○○が達成できないやつは辞めてよろし」が容認されるというのはよく理解できない。おんなじことじゃん。

その議論でよく「英語がしゃべれる」云々という言い方がしばしばされているのがちょっと気になった。大半の人にとっては、人と英語で連絡をとる必要がある場面では、今やほとんどメールで済むから、書けさえすればいいじゃん、と思うからだ。

明治以降、古い時代の英語習得の主眼は、読むことに置かれていたように思う。外国の情報を日本に取り込むことが最重要だったから、外国語の文献を読むために外国語を習っていた。

私が英語を学び始めた1970年代頃には、「英語が読めてもしゃべれない」ということが大きく問題となり、「英会話」の重要性が増して、旧来の「読む」ことを重視した勉強法が「古臭い」と思われるようになった。いつ頃からそうなったのかは定かではないが、少なくともあの頃はそうだった。それは、飛行機が発達して国際間の人の行き来が盛んになり、実際に面と向かって外国人と話をする機会が飛躍的に増えたことが背景にあるだろう。そして、電話屋として我田引水すれば、「テレックス」の時代から「電話」の時代に移行して、「電話で話をする」ということが必要になってきたから、とも思う。テレックスでは伝えられない細かい内容は、旧来どおり手紙を書くか、または電話で話をするしかなかった。

その後ファックスが普及して、今度は「書く」ことによるコミュニケーションの時代への移行が始まる。そして90年代、eメールが通信のデフォルトになり、文書を添付したり、ウェブにアップしてURLを添付するという方法により、大量の情報を文章により相手に伝えられるようになった。旧来の手紙の時代よりもむしろ、文章を書くことの頻度も重要性も、これまた飛躍的に高くなり、「書く」時代への移行は決定的になった。

いつの時代でも、一部の直接海外との取引にたずさわる人々にとっては、外国人と直接話をしたり外国に住んだりする機会も多く、そこで人的関係を築くためにはどうしても「しゃべる」ことは必要だ。それは今でも全く変わらない。しかし、マクロ的に見れば、大多数の人は今や、「英語でメールを書く」ことができれば、だいたいコトは済むのじゃないかと思う。メールを書く機会に比べ、しゃべる機会は圧倒的に少ないので、そんな滅多に無い機会のために英会話を勉強して、発音に苦労するのはバカバカしい気がしてしまうだろう。

なので、なにかといえば発音が云々とかいう、英会話重視の勉強法が、私には時代遅れに思えてしまう。それは、「電話の時代」の発想だ。

そりゃもちろん、きれいな発音で英語が話せればカッコいいに決まっているが、多くの人にとって、そのためにものすごい時間とエネルギーをつぎ込むことは無駄。それより、前回エントリーで書いた、「機械的な文章を書く」訓練をして、英語でそれができるようになるほうが、今や決定的に重要だと思う。学校でそれをやってくれなければ、自分でやればよろしい。

書くことは易しいことではない。まずは読めなければ書けないし、話すときよりもきちんと文章を組み立てられなければいけない。でも、発音に苦労する必要はない。文学を書くのではなく、メールを書けるぐらいが目標ならば、機械的な文章のパターンをいくつも覚えればよい。会話と比べて反応時間が長いので、ゆっくり考えたり、推敲したり、語彙やスペルをウェブで調べたりしながらやればよい。敷居はむしろ低いと思う。

なお、英語至上主義がいけない、というエントリーもどこかで読んだ(Blogosだったと思うが忘れた、見つからない)。それも理想論としてはわかるけれど、これまた「多くの普通の人」にとっては、英語以外の外国語を習得したところで、メシのタネになる確率は極めて低い。英語以外の言語は本当に好きな人だけ、または必要性の高い人だけやればよいと思っている。私は「好き」だったので、高校から大学にかけてかなり激しくフランス語をやり、20代は必要に迫られてスペイン語を勉強したけれど、その後の人生でこれらがメシのタネになったことは一度もない。人生が豊かになったので、それはそれでよかったが、それまでである。今後の世界でおそらく唯一の例外が「中国語」かもしれないと思うが、中国語本位時代はまだ少し先だろう。

人間、それぞれに時間やエネルギーや能力には限界がある。その限られたリソースを外国語の勉強に割り当てるということを考えると、「メールを書ける程度の文章を英語で書く」ということを目標にしてやるのが、今の時代には一番合っている、と私は思う。

心配しなくても社畜はしばらくしたら絶滅するだろうけど

この記事の元になった「小町」ネタは、私も読んでいて「このおばちゃんたちの下士官根性はどげんかせんといかん」とつくづく思ったものだ。

http://kusoshigoto.blog121.fc2.com/blog-entry-303.html

「妻の病気のときに夫は仕事を休むべきか」(もうちょっと正確に言うと、妻には生まれたばかりの赤ちゃんがいて、自分は高熱出してるのに24時間赤ちゃんの世話をしなければいけない状況だった)というお題に、「そんなことでいちいち夫を休ませていては、クビになる」とか「あなたは甘い」とか「日本はダメになる」とかそういうレスが女性と思しき人からたくさんついている。

そんな中に、「えー、そーっすかぁ、ボクなら休みますけどぉ」という、わりと若そうな男性からのレスが後半増えだして、ちょっとほっとしたり。

で、こういう「おばちゃんたちの下士官根性」の世界は、当然のことながら、これまでの日本の社会の中では、このように振舞うことが「得」だったから、皆がそれを見習ってやるようになり、成立してきた。「終身雇用」が「あるべき規範」であった時代には、そうやって無理をして体を壊しても、会社はちゃんと面倒を見てくれただろう。「武士の一分」という映画の中で、キムタク演ずる主人公は、「毒見役」という仕事のために失明してしまったが、お殿様はやさしくて、捨扶持を彼に与えて生活を支え続けた。これが、「終身雇用」時代の日本企業の美しい姿の象徴だった。(実際には降格されたりいろいろあっただろうが、クビにはならなかっただろう。)そして、妻はそういう夫を支えて、終身雇用の職にしがみ続けさえすれば、老後の心配もない。妻と夫の生涯全体のスパンで見た幸福の総量を、利子率で割引して(なんせ日本は低利社会だし)、現在価値に直した「幸福の現在価値」は、「妻を放り出して残業する」ことのほうが、「幼子をかかえた妻のために仕事を休む」よりも大きくなる。

しかし、もはやそんな時代ではない。会社に奉仕して無理して体こわしても、挙句に放り出されるのが関の山だ。それよりも、いざというときには助け合う家族のほうに、普段からエネルギーを注いでおくのが当然。そういうふうに、だんだん変わっていくだろう。

私自身は女だから、終身雇用という幻想は過去にただの一度も持ったことはなく、だから社畜になるというインセンティブも全くなかった。会社のために無理して体を壊しても、誰も面倒など見てくれない、バカバカしい、自分と自分でつくった家族でなんとかしなきゃいけない、という考え方をずーっと持ってきた。今の若い層の方々は、おそらく私と同じ考えなのだろうと思う。

なので、ほっといても世代交代すれば、「アナロ熊」みたいに、そのうち「下士官根性おばちゃん」は消滅するだろう。でも、若年層のほうが人口少ないし、おばちゃんたちの層が厚いので、自然な世代交代には時間がかかるだろう。その狭間で、今の30代とか40代あたりの年齢層が、板ばさみで苦労することになってしまう。

解決法は、「クビ上等」と言い放つことのできる、優秀でつぶしがきく人が率先して、「社畜」状態の環境を捨てて外に逃げることだ。「外」とは、他の会社かもしれないし、海外かもしれないし、自分で起業することかもしれない。いろいろあり。「逃げることは一つの意思表示」という話を書いた。「優秀な人ほど先に流動化すべき」という話も書いた。この話もそれの続きだ。「社畜下士官根性」は、上記のようにすでに時代遅れであり、多くの人がその考えに洗脳されてしまって元に戻らないだけの話で、何か必然性があって残っているものではない。「洗脳」を死ぬ前に解くには、そうやってできる人から「脱・社畜」を実践して、そのうち「メディア」で誰かがそれを取り上げてファッションにでもしてくれるのを待つ、といったところかと。

<追記・10/18>
下士官根性」とは、「自分がむかし苦労したんだから、オマエもおんなじ苦労をしろ」と言って、先輩から自分がやられたのと同じいじめを、自分の後輩に対してする行為。「負の連鎖」ともいえる。つまり、私がここで問題にしているのは、「本人が合理的に判断して、残業するとか仕事で無理をするとか決めるんじゃなくて、思い込みによる誤った自己規範をもとに決める」ことをいう。

終身雇用不在時代の傾向と対策

私の年齢(49)ぐらいになると、一昔前だったら終身雇用の「恩恵」がようやく感じられる年代だったんだろうと、最近実感する。女性ならば、終身雇用のサラリーマンの奥さんになっていれば、老後まで安泰だし、そろそろ子供も手が離れて、観劇だの旅行だの、のんびりできるくらい。これまた終身雇用の恩恵にあずかれるポジションに限られはするが、男性ならば、出世した人はそれなりに、出世しなかった人もそれなりに、文句をいいながらも仕事にありついていたことだろう。

でも、最近身の回りで、同年代の友人達が、そうではない事態に立ち至った話が多い。それぞれにいろいろ事情があるのだけれど、なにしろ一昔前なら順調にいくぐらいのバックグラウンドや実績や能力のある人たちが、いろいろ困っている話を聞く。このご時世でもあり、またこの年代でもあり。

しみじみ、実感。

50近くなると、これまでやってきたことに圧倒的に縛られ、ポストは限られてくる。子供がいたりなんだりと、制約も多い。失業して「なんでもやります」と言っても、over-qualificationだったり、いろいろと雇う側の都合もあり、なかなかそうもいかない。「unemployed(雇用を解消された)」ではなく、「unemployable(雇用不能)」になる。私も40ちょっと前に、自分はunemployableになったなー、と骨身にしみたもんだ。

それで、乏しい身の回りの事例をもとに、ご同輩や後輩、および自分のために、傾向と対策を考えてみた。

まず、突破口になりやすいのは、子供を通じた社会活動、趣味の人脈、前にちょっとやったサイドビジネス、といった、仕事面でいえば「寄り道」ともいえる部分のように思う。それも、単に消費するだけの趣味ではなく、なんらかの形で他人の役にたつようなプロダクティブな形で何かを残しておくことと、「人任せ」ではなく自分が何か主張なり見方なりを持てるぐらいになっておくこと。スティーブ・ジョブスの卒業式スピーチにあるように、人生、どの寄り道があとで役立つかわからない。できれば、気力も体力もあるうちに、興味のある寄り道に首をつっこんでおくのは悪くないとつくづく思う。

それから、「夫婦共働き」はリスクマネージメントの基本。

最後に、もちろん「健康」は何より大事。

他にも、何かアドバイスがあればコメント歓迎します。

<追記>
コメントやブクマをありがとうございます。皆様のご意見をまとめると、上記のほか・・・

1)手に職をつける
2)早いうちに資産を形成する
3)身なりに心がけるなど、何かと「前向き」を保つ

といったところでしょうか。特に「資産形成」は確かに重要ですねー。終身雇用だと、「大企業への就職」自体が資産みたいな感じに作用(昇給とか退職金とか天下りとかの形で、あとになって価値が増大する)していましたが、それがない時代だと、若くてかせげるときに、不動産や株に投資して資産をつくらないといけないと痛感します。また、それのおかげで、最悪の事態を免れている友人もいます。

なかなか学校の勉強では身につかない部分ですから、若いうちに「投資」「資産運用」の知識を自分で身につけるのがいいみたいですね。